残ったのは月と



















紅い闘争


 決められた言葉、決められた台詞を、決められた旋律に乗せて歌う。
 それが、ヒカリに求められる、「力を持つ者」の姿。



 切り立った崖に向かって作られた祭壇。
 大きく切り開いたその場所には、岩を削って描かれた「祈り」の象徴がある。

 大きな菱形。

 世界の調和の「祈り」が込められたその図形は、彼らの信仰の対象となる。



 この町を形成している人々は、内戦や飢餓から何とか生き残った中のほぼ半分の人間、といわれている。
 半分は、生存データは残っているものの、その最後のデータ更新から半年以上行方不明になっている。
 ――行方がわからなくなっている者の中には、ソラの名もあった。

 名前のわからない、胸の奥で渦巻く感情を打ち負かすかのように、ヒカリは顔を上げる。
 目の前に広がる、絶壁に刻まれた紋様。

 ――私は……

 その大きさに一瞬気圧されるかのように、少し、怯む。

 私は、ずっと……一生この岩に縋って生きていくのだろうか。

 ああ、と、僅かに絶望を滲ませて息を吐く。
 ぼんやりと霞む視線を、岩と空との境界に滑らせて、ヒカリは最後の一節を歌いかけた。
 ……影が見えた、気が、した。



 伸びやかな声が突如引きつる。
 背筋を這い上がってくるような悪寒。
 それは戦慄だった。

「――っ! みんな逃げて!!」

 遮断された気配。襲い来る兇悪――
 ――何故、知ることが出来なかった?

 途端にざわめく信仰に縋る人々。
 逃げようともしない彼らに、思わずヒカリの顔が忌々しげに歪み、舌打ちをする。

 崖の上から、ザリザリと岩を削る音が聞こえ始めた。
 岩に描かれた文様を消してしまおうとするかのように、人の形をした影が次々と降りてくる。

 ――何故。

 降り立つ姿。
 影を率いていたのは――


「ソ……ラ……」


 ――何故、知ることが出来なかった?





 争い。
 殺戮。
 戦争。

 他のどのような言葉で、その状況を説明すればいいのか、ヒカリにはわからなかった。
 原始的な争いだった。
 しなやかな反りを持った刃は人を切るための道具。
 人に穴を穿つために作られた鉛の弾は、たがわずその役目を果たす。

 彼らは彼らで徒党を組んでいた。
 僅かに残った、作物の取れる土地。――彼らの目的はその略奪だった。

 しかし、皮肉にもそれは彼ら自身の首を絞めた。
 血は土地を穢す。
 炎は土地を痩せさせた。
 奪うための争い……しかし、みな争うことに目を奪われ、目的が何なのかわからなくなっていった。

 


 殺し合いは5年も続いた。
 不毛な争いだとは、もう誰の目にも明らかだった。

 その間、ヒカリの『水鏡』は未来を映さなくなった。
 力の消失。
 それはヒカリがもう用無しである、ということを示した。

 未来を見ることの出来ないヒカリを、人々は責め、罵り、同時に守り、宥めた。
 

 争いの間匿われていたゲル。
 厳重に警備されているそこは、未だ人々が、ヒカリや長老に権威を感じている証拠でもあった。
 ヒカリは椅子に座ったまま、未来の見えない『水鏡』の水底を見つめているのが常になっていた。
 長老はその姿を見まいとしてか、常に衝立の奥で、車椅子に座りひたすら静かに日々を過ごした。




 ――時折聞こえてくる怒号。
 人を殺す音。

 兇刃は、すぐそこまでやってきていた。

 バシッ、と、何かが布を叩くような音がして、ヒカリは虚ろに瞳を上げる。
 ついたての向こうで、老女が身じろいだような気配がした。
 音の元は、出入り口の垂れ幕が斬られた音だった。
 刃を手にした姿――

  「ソラ」

 溜め息を吐くように、音にならない声で囁く。
 ソラはそれには反応せずに、ザリ、と足元の砂利を砕いた。

 手には血塗れた刃。
 この厳重な警備を、如何にして突破してきたかが言葉にせずとも理解できた。

 ソラの瞳は穏やかだ。
 あの日、出会ったときのソラの瞳と同じ――

 ス、と目を細めたかと思うと、ヒカリは皮肉げに薄らと笑う。
 足元に広がっていた『水鏡』を閉ざす。

「おめでとう。とうとうここまで来たのね」

 揶揄するような声に、それでもソラの表情は変わらなかった。
 能面のようだ、と、何処か遠いところでヒカリは思う。
 自分も、同じような顔をしているとは気付かずに。

「――お前の周りを固めてた奴らは、みんな殺した」

 ソラは刃を掲げる。

「お前は、もう一人だ」

 奥に婆様がいるけど、と、心の中でひとりごちて、ヒカリはそれを鼻で嗤う。

「見ればわかるわ」

 荒んだその物言いに、ソラの瞳が僅かに揺れた気がした。
 それにかまわず、ヒカリは続ける。

「……どうしたの? ――殺さないの?」

 音を立てずに、ヒカリは立ち上がる。

「そのために来たんでしょう? これで終わりよ。全部あなたたちの物」

 ソラは構えた刃をヒカリに向けたまま、しかしその仕草は隙だらけに突っ立っている。
 紅の伝うその切っ先を自ら喉元に誘うと、ヒカリは歪んだ笑みを見せた。

「殺して、ソラ――私はもう、ここで人々を導く存在ではなくなったから」

 ソラの瞳が、その刃の先を舐める。
 戸惑うように視線を泳がせるが、刹那、口元を引き結ぶ。

 覚悟はしていたものの、その瞬間が訪れるのは恐ろしかった。
 振りかぶるソラの顔は逆光で見えない。
 後ろで、婆様があわてて衝立から出てこようとする気配がした。

 ――駄目!

 その声を出す間もなく、白刃はヒカリの喉を引き裂いた。









 死んだのだと思った。
 少なくとも、一度は死んだと思った。
 それなのに。

「ヒカ、リ……」

 覗き込む影。
 未だ耳に馴染むことのない、それでも懐かしい、声。

「――ソ、ラ?」

 ぼんやりとしか見えない視界。
 頬に、何かがパラパラと落ちてくる感触があった。
 確かめるように自分の顔をなでると、そこには濡れた頬があった。

「ころせない――ヒカリ、俺にはお前が殺せないよ」

 ソラの手が、ヒカリの首を押さえている感覚があった。
 刃をつきたてられたと思った箇所だ。
 じんわりと伝わってくるぬくもりを追って、ヒカリはその手を重ねた。

「どうして……」
「血、を……お前の血を見たら、怖くなった。……おかしいんだ、今まで何人も殺してきたのに、なんで……」

 ヒカリの手から逃れるように、ソラは手を外した。
 その手は、ヒカリの首には傷がないかのように、血の色は一片もなかった。
 見間違いかと思い、ヒカリは改めてきられた感触のあった箇所に触れた。

 ――傷が、なかった。

「……それが、その男の力だよ、ヒカリ」

 横たわるヒカリの耳元で、車輪の軋む音が聞こえた。
 見上げるとそこに、長老の姿。

「時の法則を捻じ曲げる力。それが、お前の『対の人間』の持つ力――お前の『水鏡』を完全にする力だよ」

 ヒカリが起き上がり彼女を見ると、厳しい顔をした老女がヒカリの首筋に指を滑らせた。

「本当に跡形もないね……良かったよ、ヒカリ……お前が無事で」
「婆、様……」

 ヒカリは老女を呼んだが、彼女の意識はすでにソラに向かっていた。
 厳しい、非難にも似た昏い視線。
 その見えない目から悪意を向けられたソラは、ふらふらとその場に立ち上がった。

「小僧、お前のやり方は心底気に食わない。その力の使い方も」
「……」

 ソラは、手にした刃をゆらりと見遣った。
 力の抜けた手から、スル、とそれが滑り落ちた。

「……しかし、ここまで来たからにはお前の勝ちだ。お前がここにいる人間を率いねばならない――もちろん、その覚悟はあって今までやってきたんだろうな」

 ソラは応えない。
 老婆はその歳を感じさせない声で、なおも続ける。

「教えてやろう、小僧。お前がヒカリを殺せないのは、お前が運命付けられたヒカリの『対の人間』だからだ。」

 老婆はヒカリの手を取る。

「ヒカリ、お前の力がうまく発動しなかったのも、この男が関わっていた所為だ。力同士が干渉してしまったんだろうね。あの男もお前のことを拒絶していたようだし」

 ヒカリはちらりとソラを見た。
 ソラは身じろぎもしない。
 老婆はソラのほうに向き直り、昏い目を向けたまま続ける。

「お前の持つ力と、ヒカリの持つ力は融合し、新たな力を得るだろう――だが」

 老婆は、その手でソラを指差す。

「お前たちの前には、その力と同等の巨大な苦難が訪れる」

 宣託のように、老婆は厳かに告げる。

「愚か者よ。お前にはその運命を殺そうとした報いが訪れる……これは私の最後の予言だ」

 最後、という言葉に、ヒカリは弾かれたように老婆を見た。
 ようやく、老婆の顔が僅かに緩む。

「私はお前のそばにいた。お前の『対の人間』――この男が来ることだけを待っていた……だから、私の役目はここで仕舞いだ」

 それがこんな男だとは思わなかった、と呟くが、老婆はそれでも、彼がヒカリの運命だという事は否定しない。
 恐る恐る、ヒカリはソラの顔を窺う。

 ソラは、彼女たちの応酬を虚ろに見ていた。
 その視線に挑発的な笑みを浮かべて、老婆は言った。

「支配者よ、不吉な呪いをかけた私を殺すが良い。それがお前の望みだろう!」
「婆様やめて!」

 ヒカリは悲鳴めいた声を上げる。
 顔色の悪いソラはそんなヒカリを見、そして老婆を見遣った。
 老婆はその視線を緩める事はない。
 ――やがてソラは地面に突き刺さる刃を引き抜くと――

「……よく喋る婆だ」

 一言悪態をついて、そのゲルを後にしていった。




 やがて、外で歓声が上がった。
 ヒカリの頬を、一筋、何かが伝っていくのがわかった。




すぐとか言いつつ結構かかりましたね(笑)
次でこの章は終わりです。
2006.6.18


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