残ったのは月と



















黄昏の記憶


 ―――
 ―――――


 黄昏時の黄金が波打ち、どこまでも続いている。


 少女はその中を、水を湛えた柄杓を握り、走っていく。
 彼女が走る。
 黄金の滴が後を追う。

 彼女の母が危篤であった。
 苦しそうな母に水を飲ませようと飛び出したは良いが、水を汲む道具が柄杓しかなく、その不安定さに彼女の焦りは深まる。

 涙で滲む景色。
 その中を、彼女は必死に走っていた。

 ふと、小さな窪みに足を取られて、彼女は転ぶ。
 ガラガラと音を立てて、真鍮製の柄杓は転がっていく。
 荒い息遣いのままに立ち上がろうとした刹那、その手から柄杓が消え、柄杓からは水が零れ落ちていることに初めて気づく。

 泥だらけの手を見つめ、彼女は咽喉を詰まらせた。
 再び水を汲んでこなくてはならない。
 けれど、井戸まではまた距離がある。
 水を飲ませなければ、母は彼女を置いて行ってしまう。
 そして、その時間は差し迫っている。

 彼女にとって、それは恐怖以外の何物でもなかった。
 立ち上がらなければならない。けれど、力が入らない。


 ふと、その目の前に立ちふさがる影が現れた。

 遮られる黄金。

 その影に導かれるように顔を上げると、そこには少年が立っていた。
 少年は一言も発しないまま、少女に手を差し伸べる。
 少女はふらふらとその手を借り、ゆらり、と立ち上がった。

「――もう、間に合わないよ」

 少年がぼそりと呟く。
 その声は、痛みを堪える響きで――

「もう、逝っちゃったよ……」

 ――涙も、出なかった。

 この人は誰だろう。
 どうしてお母さんのことを知っているんだろう。
 どうして、こんなに――
 ……泣きそうな、顔をしているんだろう。

 ぐらぐらと揺れる思考。
 ともすれば壊れてしまいそうな自分を支えながら、どこか違う上の空の部分で、少女は考えていた。

「ヒカリ……」

 名を、呼ばれる。
 その瞬間に、総ての思考が取り払われた。
 日が沈む匂いも、風にざわめく草原も、一瞬総ての色や音を失くす。

 ヒカリの唇から、その名が零れ落ちた。

「ソ、ラ……」

 草原に強い風が吹く。
 逆行で見えない彼の表情の向こうから、神殿が時を刻む鐘を鳴らす。

 ――それが、二人の出会いの刻だった。





 それから何年か経ち――
 ヒカリは成長し、無力なだけの少女から、無力とは言えないほどの権力を手にした女になっていた。

 母を失くした後、ヒカリは繰り返される人々の争いの中で、国を失くした難民と共に暮らしていた。
 モンゴルにいたという遊牧民たちが使っていた「ゲル」という家屋を使う町。
 それは移動も可能な家屋であるが、町の人々が移動して過ごしていたのも過去の話になる。

 30世紀を越え、世界は壊滅的に破壊し尽くされていた。
 突然起きた人類最大規模の戦争――とは名ばかりの、殺戮。
 環境の悪化により、突如作物は採れなくなり、食物連鎖がなくなった動物たちも消えていった。
 人は飢餓で死に、病で死に……食べ物や土地を争うことで、死んでいった。

 その殺戮のさなか、ヒカリがいた町だけは、心無い者たちの襲撃や災害から逃れることが出来ていた。
 それは、ヒカリが権力を手にする理由のひとつでもあった。

 『水鏡』――未来を見る力。

 それこそが、人々を救う力であった。

 彼女の出す「魔方陣」とも呼べるその中に、水を湛えたような光が揺らめく。
 水底に浮かび上がる未来を見、ヒカリは宣託を下す。
 その不思議な力を持つ女を、人々は神と崇めていた。
 変わることのなくなった表情。
 その荘厳な表情の前に、人々はその言葉を疑わなくなっていった。



 その日は祭だった。
 町を率いるヒカリは、巫女のような役割を担っており、その信仰のために歌を歌う。
 祈りの歌は荘厳にして清廉。

 信仰は、もはや何に向けられているのか、誰に救いを求めているのか不明瞭になってきている。
 人々が縋ったのは、ただ、ヒカリという無表情な女だけだった。

「ねえ、婆様」

 ヒカリが久しぶりに声を発する。
 僅かに驚いた婆様と呼ばれた彼女は、見えなくなった目をピクリと動かした。
 彼女と共に暮らす老婆……長老と呼ばれる彼女もまた、人の運命を見るという不思議な力を持つ者であった。
 ヒカリの養い親でもある彼女は、沈黙で先を促す。
 それを正確に理解したヒカリは、囁くように言葉を継いだ。

「ソラ……という人をご存知?」

 唇がそう名を紡ぐ時、ヒカリの心はいつも僅かに震える。
 痛みのようなそれに僅かに眉を寄せるが、すぐに老婆に動揺を悟られないように無表情に戻る。
 それを知ってか知らずか、老婆は息を吐くように微かに笑った。

「ああ……お前をずっとこちらに縛り付けていたのは、その名かい、ヒカリ……」
「縛り付ける?」

 衣擦れの音を立てて、ヒカリは純白の衣装を纏う。
 その動きを耳で察知しながら、老婆は自分の唇を指で撫ぜた。

「お前は何処か違う所へ行ってしまいそうになる自分を、何かで必死にこちら側の世界に留まろうとしているように見えておったが……そうか……」

 座っている車椅子の肘掛にその手を置くと、老婆は、ああ、と息をつく。

「その名前は、お前の『対の人間』の名だよ。お前の『水鏡』を、完全な形にすることが出来る、唯一の人間だ」

 ヒカリはその言葉に静かに目を伏せると、黄金の装飾品を幾つも身につけた手を見る。
 その手は、彼に触れた手。
 ぐ、と軽く握り、力を抜く。
 覚悟を決めたように顔を上げ、再びヒカリは声を発する。

「――また、会えると思う?」

 切なげに響く声に、老婆は再び密やかに笑う。
 こんな風に不安な様子を少しでも感じさせるヒカリの様子は、本当に珍しかった。
 どれだけの時間、その言葉を聞くために胸の裡に留めていたのだろう。
 彼女にとっての『ソラ』という名の人間への思い入れが見て取れるようだ。
 だが――

「そうさね……運命さね。出会うことにはなるだろう。ただし、その時はお前だけではない、巨大な運命がお前たちに降りかかるだろうことを覚えておいで」

 ギシ、と音を立てながら、長老は車椅子の方向転換をする。
 それを視線で追いながら、ヒカリは全くの無表情に戻っていった。
 その過程で、僅かに瞳を揺らせる。

「――そんな気はしたわ」

 やっとのことで問うことの出来た、『ソラ』という少年だったあの人の存在。
 少なくとも、あの黄金の記憶は、夢ではなかった。
 焼きついたようにずっと頭から離れなかった、母との別離の日の記憶。
 彼女の中で、それだけが、今までの中で人として生きていた日々の記憶だったのだ。


 ヒカリは、完全に無表情になると、何の感情の揺らぎも感じさせない動作で、自分たちの住むゲルから出て行った。


 ――宴が、始まる合図が鳴った。


このあたりのヒカリの設定は奏廻が引き継いでる感じ。
あああすげえ懐かしいこの辺……(笑)
早いうちに「過去の星」編終わらせますー。
すぐですー。

2006.6.4


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