infinity








「自己紹介がまだだったわね」

ス、と表情を変え、パンドラは厳かにも聞こえるその声で言った。

「私の名前はパンドラ。『総てを与えられたもの』、パンドラよ」

冷ややかなその声に、リュウヤの眉が顰められた。

「何言い出すんだ、って顔ね。…あなたは知っているはずよ。私の匣のありかを」
「そんなもの……ここにはない」
「嘘言わないで」

パンドラは静かに冷笑した。

「ここには、私の半身でもあるあの匣の気配がある。そして…鍵も見つけたわ」

冷たさを十分に湛えた瞳で、パンドラはゆっくりとリュウヤの瞳を見つめた。

「あんまりいい趣味とは思えないわね…あんな指輪をプレゼントするなんて」

悪態をつくような雰囲気で、パンドラは手元を見遣る。

「あなたの人格、疑うわ」
「指輪…?」

リュウヤは、不思議そうな声をあげた。
その反応に、一気にパンドラの表情が変わった。
驚愕の、顔に。

「まさか、鍵だと知らずに彼女に渡したんじゃないでしょうね?」

パンドラは「それ」を掲げて、リュウヤに見せた。

「あなたが彼女に渡したって言う、この指輪よ!」
「……!」

リュウヤの表情がこわばる。
愕然としたその表情に、逆上したパンドラは更にまくし立てた。

「これは人を不幸にする指輪よ! それを、あの無関係の子に持たせたって云うの!? 冗談じゃないわ! あの子は私の子じゃないわよ! あのオーラは、そう、アダムとエヴァの子よ……!!」




・過去でひとりごちる男の声・

この世にはたくさんの人種がいる。

それは、生まれた国や地域ではなく、もっと根本……
「それ」を始祖とする者たちによって決まることだ。

ある男は、ギリシャ神話で、最初の女として作られた「パンドラ」の子供。
ある女は、旧約聖書で最初の人間とされた「アダム」と「エヴァ」の子供。
……そして、またある女は、「アダム」の最初の妻である「リリス」の子供であった。

男は、始祖たる母の呪いを受け継いでいた。
女は、本能に則り、その男に思いを寄せていた。
そして、もう一人の女は、その始祖たる「リリス」の魔性を受け継ぎ、女のもうひとつの本能……

嫉妬に駆られていた。




・未知なる不幸の引き金・

オアシスは街の中心にある。
普段はそこから各自水を摂り使うのだが、共同で使う生活用水を汲み上げるのは、当番制で行っていた。

共同で使う水。

つまり、共同浴場だ。

オアシスに身体を入れてしまうことも可能だが、それは衛生上良くない事を彼らはよく知っていた。
しかし、電気は資源が乏しいこの地域では使うことは出来ないので、ポンプなどの文明の利器を使うことはままならない。
よって、人力ということになる。

昼の間、浅広い湯船(もちろん壁などはない)に水を張り、日中天日に晒しておけば、ここでは否応なしにそこそこの温度を持った湯になる。
そしてそれを、一転して寒くなる夜の早いうちに浴びるのだ。

ガスは月一で他の街から買っては来ている。
しかし、早々使い込めないので、今でもこうして街全体で節約しているのだ。

その日の当番は、リラと、スフィアという女だった。

スフィアは、街でも有数の美人だが、高すぎる気位の所為か、あまり同性には好かれていない。
男にはもてるが、元来からなのか彼女には男を手玉に取るクセがあった。

恋多き女だと、自他共に認める存在。
本気で誰かを愛することなど、ないと思っていた。

しかし、彼女は今、あるはずのないと思っていた本気の恋に落ちていた。
……リュウヤという、東洋系の顔立ち、浅黒い肌の男が、その相手だ。

スフィアは元は彼を気にも留めていなかったのだが、恋とはほんのきっかけで始まるものである。

……笑顔を見たのだ。

いつも表情を変えない彼の、滅多に見られない表情であった。
しかし、それと同時にリラへの嫌悪が生まれた。

……その笑顔は、リラに向けられたものだったのだ。

スフィアは、幾度となくリュウヤに迫っていた。
しかしリュウヤは、男たちを手玉に取ったスフィアのことを、女としてみることはなかった。
その度に、スフィアの中のリラへの嫌悪が膨らんでいくのが判った。


(こいつさえ、いなければ……)


その思いは、そう、かつて魔性の女とされた、かの地獄の花嫁…
…リリスのそれに似ていた。




水を汲むリラの背中に、ふと苛立ちを覚える。
そして、それはすぐに殺気に変わった。
耳の奥で、心臓の鼓動が早鐘を打っている。
燃え滾る血。
それは、「血が騒ぐ」というそれに似ていたかもしれない。

無意識のうちに、スフィアの手はリラの頭を捕らえ、オアシスへと沈めた。
リラは激しく抵抗する。
その様子を、何の感慨もなく、スフィアは見つめる。
跳ね返る水に打たれるのすら無視して、更にその手に力を加えていく。


(…コイツサエ、イナケレバ…)


スフィアのその瞳には、光は、なかった。





・聖なる罪の穢れ・

パンドラとリュウヤは睨み合っていた。
しかし、その沈黙の終わりは唐突にやってきた。

「…リリスの血の気配がするわ」

その言葉と同時に、リュウヤも目を見開いていた。

「あなたにもわかるの? …いや、今、目覚めたと言うべきか」

リュウヤの表情が、凍り付いていく。
パンドラもそれを察した。
エヴァの……リラの気配が、消えかけていることを。

「リラ!!」

突如リュウヤは走り出し、大きな扉を蹴り飛ばした。
そのまま、向こうに見えるオアシスの方へと向かっていった。

パンドラはそれを見送ると、一人静かにその手の中の指輪に目を遣った。
幅広の指輪に刻まれた文字は、ギリシャ文字で「解放」。

(これこそが、あの匣の鍵…)

パンドラはそれを握りしめる。

(もう、開かれてはならないのに…!)

パンドラは固く瞳を閉じた。
その表情は、泣きそうに歪んでいた。



「リラ!」

リュウヤは走っていた。
彼の鉄の仮面は容易く剥がれ落ちる。
彼は、ただ彼を優しく包み込んでくれる存在を失いたくなかった。
彼は無様に走り続ける。
彼の心の中に残った、ただひとつの希望のために。


「リラ!」

その声でスフィアは我に返った。
水に浮かんだリラに、もう力は無い。

(リュウヤが、来る……)

スフィアは呆然としていた。
身体に、力が入らない。

(私…何をしていたっけ…)

頭から被っていた黒い布がずり落ちる。
黒々とした長い髪は、綺麗な三つ編みだったのだろうが、ほどけかけていた。
褐色の肌に映えるスカイブルーのサリーが、異様に際立って見えた。
布が落ちきった時、スフィアは再び我に返る。
弛緩していた身体が、途方もなく震えだす…。

(そうだ…私…)

「スフィア…」

リュウヤは力なく彼女の名を呼んだ。
オアシスの方に向いていたスフィアが、ゆっくりとリュウヤのほうに振り向く。

その先には……

「リラ!!」






・終わりなき命の性・

パンドラは、その広い家の中を彷徨っていた。
彼女の、半身の気配は地下にある。
そこまでの入り口が、何処かにあるはずだった。

(彼が帰ってくる前に、見つけなければ…)

でなければ、彼はあの匣を開けてしまう運命にある。
それだけは、絶対に阻止しなければならなかった。

やはり、よほど金をかけているのか、妙な扉がたくさんある。
突然外と繋がっている扉、開かない扉、人が通れない扉……

そして、廊下は迷路のように入り組んでいた。
一度迷えば、出て来るのは難儀そうだった。
だが…

(…見つけた)

パンドラにとって、あの匣はわが身も同然なのだ。
半身は、呼べば応える。
パンドラは、早鐘を打つ胸を押さえながら、ゆっくりと床にある扉を持ち上げた。

…そこには、深遠の闇が広がっていた。

光が差すのは、今パンドラが立っている扉からのみ。
その光の命は弱弱しく、すぐ先を照らすだけでその力を失っている。

―――まるでまた、あの神話の世界に戻ったかのようだ。

ひんやりと冷たい空気が頬をなぞる。
恐怖の波が押し寄せてきたが、それは胸の奥に無理矢理押し込める。
その苦しさの中、思わずあの男の質問が頭の中に蘇えった。

―――闇の中に、ただひとり―――

「私は…、世界に生きているのよ…」

その答えを、震えそうな声で呟き、闇の中へと一歩踏み出す。


「私にだって、世界はあるのよ」









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高校時代、突如自習になった音楽の時間にこの辺を書いていた記憶があります…(何しとんの)
この中に書かれている神話は、ほとんどフィクションなのであんまり突っ込まないように(笑)