infinity








「例え話をしよう。
 たとえば、この世に君しかいないとして、周りを見てみる。
 周りは暗闇で何もないとする。
 …君なら何を感じる?
 虚無かい?孤独かい?それとも…」

「そんなの決まってるわ。」

少女は、伏せていた瞳を上げた。
黒々とした長い髪、濡れた様な黒い瞳。
それとは対照的な白い肌、赤く血のような唇。

その小さな幼い体に張り付いたような、白のワンピース。

裸足の、その美しい少女は、天と呼べるほどのそれを見上げた。


「世界よ。」

少女の視線の先には、見上げても先の見えないほどの巨木が聳え立っていた。
曇天に閃光が走り、一瞬素の樹はただの闇になった。
一番地に近い、太い枝に、人影が見える。

「はっ!世界……だって?」

人影(男だろうか)が、馬鹿にしたように笑う。
ひとしきり笑うと、その影は手にしていたヴァイオリンを弾き始めた。

「運命とは人が追いかけるものか?それとも、人が追われているのか?」

パッヘルベルのカノンだ。

「運命ならこっちの方が似合いかな?」

ヴェートーヴェンの 運命 の冒頭を、影は馬鹿に仕切った様子で、陳腐に弾いて聞かせた。

「とにかく、君が『世界』と答えたのには驚いた!…いや、君に世界があったとは!」

「貴方なら、知っている筈よ。私が何を考えているのか」

きっぱりと、断言するように少女は言った。

「何故今更、私にそんなことを訊くの?」

人影は持っていたヴァイオリンを地面に向け、手を離した。
地面に叩きつけられたそれは、二、三度跳ね返るとブツッと音がしてE線が切れた。

「ただの気まぐれさ。」

冷たく響く声とともに、荒れた地面に水滴が落ちた。
途端に五月蝿い程の土砂降りになる。

「次はどこへ行く気だい?」

やっとで、男の叫ぶような声が聞こえる。
少女は答えない。

「言いたくないのか?まあいいさ。」

おかしそうに言うその男の声が、急に耳の側で囁いた。

「また会おう、パンドラ。」

その声に、ふと殺意が生まれる。
体を軸に手を声の方へ思い切り振る。
……しかし、そこには何もいなかった。

「煩い…」

削れた声は、雨に飲み込まれた。
笑い声が、耳の中に何度も蘇える。

「煩い!! 黙れアダム!!」

滴り落ちるそれは、雨なのか…涙、なのか、もう判らなかった。

遠くで、空が吼えていた。



・どこからともなく聞こえてくる独り言・

この世で何か信じられるものがあるとしたら、それはきっと自分でしかない。
この世に絶望したくないならば、自分の世界を信じればいい。

この世界は、そう、偽者かも知れない。
ただ、そのことを認めてしまえば、生きる力を失うことになるかもしれない。

ならば信じていればいい。
ここに、この世界があることを。



少なくとも、彼女はそれを信じていた。
「総てを与えられた女」…そう、総てを絶望に追い込んだ…
パンドラ、という少女は。





・繰り返しの悲劇・

もう、どれほど歩いたか判らない。
雨で湿った土も、強い陽射しには敵わず、土埃へと戻った。
うだるような暑さが、確実に体力を奪っていく。

(…もう少しだ。)

もうすぐ見える……この気配の源が。

(もう少し…)

動かなくなりかけた、土まみれの素足を、無理矢理前進させる。

(今度こそ、止めなければ…匣を……)

「はこ」、という単語を思い浮かべるだけで、苦々しい今までの記憶が蘇える。
(私の匣が開かれるのを…)
「止めなくちゃ…」

思わず口にしたその言葉と同時に、パンドラの意識は遠のいた。
暗くなっていく眼前に、探していた気配が近づいてくるのが解った。
彼、が、砂を踏みしめる音が聞こえた気がした。





…静かな闇から覚醒したのは、ヴァイオリンの音の所為であった。
(……これは…カノン…?)
ふと、あのニヤけた顔を思い出し、苦い気分になる。
その気分を引きずったまま、目を開いた。

……天井だ。

ついさっきまで、あの見上げても視界に入りきらないほどの巨木の下にいると錯覚していたためか、しばらく頭が働かない。

(ここ、は…)

あの気配に満ちている。

(…ここは…)

天井には見たこともない装飾が施してある。
よほどの金持ちの家でないと、こうはできない……。
幾何学模様のようなそれに、目眩を感じながらも、パンドラは反芻した。

(ここは、彼の……)

「は、匣を……」
無意識に口をついて出た言葉に反応してか、ヴァイオリンの音色が止まった。

「あ、気がついたんだね」

快活な声と共に、小麦色の肌をした女の優しげな笑顔がのぞき込む。
パンドラはその笑顔には応えられずに瞬きをした。

(女…の子?)

予想外なことであったため、状況がうまく飲み込めなかった。

(だって、ここは『彼』の…)

よほどその驚きが顔に出ていたのであろう、女がパンドラの顔を見て笑う。

「なに、そんな素っ頓狂な顔しちゃって」
「……あの…私…」
「君さあ、この村の外で倒れてたんだって。ここの住人に連れてこられたの、覚えてる?」

パンドラは首を横に振る。
少女は続けた。

「ずいぶんな脱水症状起こしちゃっててさ、意識不明でもうだめかと思ったよ。あたしが世話してたんだ。よかった、目が覚めて」

女は、今度は静かに笑った。
あどけなさの中に、何処か大人びた雰囲気も持ち合わせている。
十代後半だろうか。
ホットパンツに白いランニングといういたってシンプルないでだちだ。
左胸元に薔薇のタトゥーが入れてあるように見える。
両耳には、褐色の肌に似合うゴールドのピアスをしていた。

「あたし、リラってんだ。君は?」
「……パンドラ」
「へえ、パンドラ、ね。じゃあパンドラ、まだ全快って訳じゃないんだからさ、もう少し横になってなよ。あ、その前に水飲んでね」

リラが、サイドテーブルにおいてあったカップを手渡して、金属で出来た水差しから水を注いだ。
結露した水滴が、その水の冷たさを知らせる。
一気に飲み干したパンドラは、リラに僅かに笑顔を向けた。

「ありがとう、リラ…。あの、でも、ここの家の人は…?」
「ああ、リュウヤね」
「リュウヤ?」
「あたしの幼馴染。ここんちの住人だよ。さっき言ったろ?君を連れてきたのもあいつ」

そこまで言うと、リラは苦笑した。

「ぶっきらぼうで、無口だし、体もでかいけどさ、いいやつだよ」
「そう…」

リラの笑顔につられて、パンドラも笑う。

「ところでさ、君、そんなカッコでどこから来たの? 隣村でもかなり遠いよね?」

リラの突然の質問に、パンドラは表情を固めた。
それは、答えにくい質問だった。
しばし沈黙した後、パンドラは静かに呟いた。

「……ずっと、遠くから」

リラは、その表情から訊かれたくないことだと悟ったのか、それ以上の追求はしなかった。
努めて明るい声を出して、リラはこの小さな放浪者の身を案じる。

「でもさ、そんな…白いワンピースじゃさ、動きづらいだろ? あたしの服貸したげよっか?」

再びパンドラは沈黙する。
借りようか考えている…というよりは、どう断ろうか考えているようだった。

「この服は…」

言いかけて、やめる。

「ううん、いいの。ありがとう」

それだけ言うと、パンドラは静かに笑った。
その笑みに幼さはなかった。
まるで、総てを知り尽くしているような、そんな哀しげな笑みであった。
リラは、少し戸惑ったようだったが、すぐに言葉を繋いだ。

「そう…ならいいけど」

気まずそうに、リラは、短くクセのあるブロンドを撫で付けた。
その左手の薬指に、銀に光る指輪を見つけて、リラは息を呑む。

「…その指輪…」

(見覚えがある)

見覚えがあるどころか、それはずっと捜してきたものの一部であった。
しかし、言いかけてパンドラは言葉を呑んだ。
今それを明かしてしまうのは、とんでもなく早計であることに気が付いたのだ。
不自然に言葉を止めたパンドラに気付いて、リラが自分の指を見た。

「ああ、この指輪? 貰ったんだ、リュウヤに。変わったデザインしてるだろ?」

他の話題が出て安心したのか、それとも本当に嬉しいのか、リラがはにかみながらその指輪を見せた。
幅の広いその指輪には、文字が刻んである。

(やっぱりこれは…『鍵』…)

「最近家の中で見つけたんだって。お母さんのものだったのかなあ……」
「リュウヤには家族はいないの?」

パンドラは心なしか厳しい顔でリラに訊ねた。
それに気づかず、リラが答える。

「うん。ずっと前…リュウヤがまだ子供の時に亡くなったんだ、リュウヤのお母さん。他に家族もいなかったみたいだし…。あ、リュウヤ、お帰り」

いつの間にか、部屋の入り口に黒い布を被った大男が立っていた。

「リラ…」
「あ、ほら、目が覚めたんだよ、この子」
「そうか」

男は黒い布を取り去ると、壁についたフックにそれを掛けた。

「リュウヤ…って言うのよね? ありがとう、助けてくれて」

パンドラがそう言うと、リュウヤがゆっくりとこちらを向いた。
所々破けたジーンズに、これまた破れかけの黒いTシャツを着ている。
リュウヤは無言だ。

「やだなあ、リュウヤ! 照れちゃって!」
「え…照れ?」

睨まれたと思っていたパンドラは、一瞬呆気に取られた。
そんなリラを、リュウヤは僅かに睨む。……視線を移しただけ、かもしれない。

「そんなことよりリラ。スフィアが呼んでたぞ」
「え? スフィア? なんだっけ…何かあったかなあ…」

唸りながら、リラは耳のピアスに手を伸ばした。
リング状のそれを取り外すと、突然思い出したように手を打った。

「あ、そーだ! 今日は水汲み当番だっけ! 急がなきゃ! スフィアって怒ると怖いからなー」

ぶつぶつと言いながら、今度は指輪に手をかける。

「それも外すの?」

パンドラはそれに敏感に反応した。

「え? ああ、うん金属身につけたままだと火傷するから」
「じゃあ、ちょっと見せてもらってもいい?」

パンドラの申し出に、リラは少し迷ったが、すぐに優しく笑って言った。

「いいけどあげられないよ?」

パンドラはそれに笑顔で返す。
リラはパンドラに指輪を渡すと、再び慌しく身支度を始めた。

「リュウヤ! 日よけ返してもらうよ!」

リュウヤが被ってきた、元はリラのものらしい黒い布を掴むと、リラは急いで外へと走り出した。


急に、静かになった。









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ごめんなさい! 長くてごめんなさい!!

これにも実はまだ別のストーリーを考えていて、こっちはサイドストーリーなんですι
って本編まださっぱり書いてないんですが。

サイドストーリーばっかり寄稿してます。大丈夫か自分。