ノワール





 吐き出せば、楽になれるのだろうか。

 このどす黒い感情も、圧し掛かってくる重いモノも、凶悪な衝動も。

 この不愉快極まりない状況を作った張本人は、いま目の前でのほほんと笑っている。
 それが逆に俺の感情を苛立たせることをわかってやっているに違いない。
 そういう女だ、こいつは。

「苦しい?」

 俺の周りに纏わりつく黒い空気に気付いた様子さえ見せずに、それでもこの女は核心をついてきた。

「だから言ったじゃない。私に全部吐き出してしまえばいいって。私なら全部受け止められるよ? ……だって」
「それ以上言うな!」

 情けないことに、喚いた声は叫び声のようだった。
 しかしこの女は容赦なく、薄ら笑いを浮かべながら続けた。

「……あいしてるもの」

 ――それが。
 その言葉が、その思いが、その態度が。
 今までどれだけの人間の自由を奪ってきたのだろう。
 少なくともその言葉に、俺は一瞬にして絡め取られてしまった。

「……ど、して……」
「どうして? 変なこと聞くのね。――あなたが望んだことじゃない」

 真っ直ぐな、ともすれば刺さりそうな印象さえ抱く黒髪を、白い指先で弄る。
 その指先の透明なエナメルが、美しく煌いた。

 ――あぁ、女だ、と思う。

 身に纏う黒のワンピース。
 控えめなはずのデザインは、この女に着られるだけで妖艶ささえ感じさせた。

 醜い。吐き気がする。
 美しいはずのこの女を前にして、こんな感情が湧いてくる自分が、少し信じられなかった。
 だけど、やはり感じるのは、殺してしまいたい、という欲求。願望。――憎しみ。

「誰が……あんなことを望んだって言うんだ」
「あなたよ。間違いなくね」

 頼んでない、余計なことを。
 殺すのは俺のはずだった……殺されるのも。

「……お前のこと、殺してやりたい」
「無理ね」

 即答だった。
 けれどその答えは正確で、確かに俺にはこの女は殺せない。
 どう頑張っても、足掻いても。

 ――行き場のない怒り。
 渦を巻いたこの感情の波を抑えるには、何が必要なのだろうか。

 吐き出せば、楽になるのだろうか。
 この想いを総て、総て吐き出せば。
 けれど。

「お前に吐き出して、何が残るんだよ」
「とりあえず、死にたいっていう願望からは逃げられるんじゃない?」

 華やかに、やけに綺麗にこの女は笑った。
 それが気に入らない。
 どうしてそんな顔で笑っていられるんだ。

「そんなに気に入らないの? 私が死んだこと」

 嬉しそうに、女が笑った。
 勘違いするな、好意的にその事実を取るんじゃない。
 そう言いたいのに、言葉が出てこない。

 禍いでしかない、これは。

 手元に転がる、目の前の女と同じ姿の骸。
 この異常事態で、それでも俺の感情はこの女への憎しみに傾く。
 凶悪な顔になっているだろう俺の顔を見ながら、少し調子を和らげて、この女は口を開いた。

「……私のこと、好きだった?」
「んなはず、ねえだろ……」
「じゃあ、」

 白い指が頬に触れるのが、視界の端で見えた。
 しかし、感触が伝わることは無い。

「どうして、涙なんて流してるの?」

 知るか。
 お前のことなんてどうでもいい。
 俺は、お前なんか嫌いだ。

 だけど、本当に……本当に死ぬことなんて無いと思っていたんだ。

「……なんでお前、ここにいるんだ」
「言ったでしょ、あなたが望んだからだって」

 それじゃあこれは、俺の願望なんだろうか。
 ただ優しいだけのこの女に、ただ憎たらしいだけだったこの女に、俺は――

『傍にいるよ』

 一度だけ、かけられた言葉。
 そう言われた時の嫌悪感は思い出しただけでもおぞましい。
 その時、この女を殺してしまいたい、と、思った。

 人に触れることを嫌う俺にとって、この女のおぞましさは桁外れのものだった。
 優しげな眼差しも、柔らかな指も、酷く甘い言葉も。
 総てが俺を取り殺してしまうような危険な毒だった。

 殺したい、と思うと同時に、殺しても死なないような気がしていた。
 何処か魔女めいた気配を感じていた俺にとって、その感覚は確信に近いものだった。
 それなのに。

 この女は今、目の前であっさり死んでいる。
 それでも、やはり魔女めいたことに――ここにいる。

「私はあなたの望んだとおりにしたのよ。あなたは私に死んで欲しかった。――そして同時に、傍にいて欲しかったんでしょう?」

 『傍にいるよ』

 よみがえる、この女の言葉。
 嘘だ。俺はそれが嬉しいだなんて、その言葉が欲しかっただなんて、思ったことは――


「約束したでしょ? 私はどんな風になっても」

 遮るように、くちづけの仕草。
 おぞましい、恐ろしい、気色が悪い。
 その感情は、俺の心の上を滑って行くばかり。


「傍にいるって言ったじゃない」


 空を切る、俺の妄想の生み出した女。
 触れることのない唇は、それでも甘く――






















5 傍にいるって言ったじゃない


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2006.11.28



ひだまりのダークさをモロに引き継いだ二作目(笑)
書いてるうちにだんだん固まっていった記憶が。
そこらへんが即興www

案外楽に書けたのでした。

これにコメントくださった方に、「実話ですか?」と聞かれた時はさすがに否定しました(笑)





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