Los/t/Angels

 楽園である筈のこの世界に、影が差しはじめていた。
 セントとカオスの争いは、最近になって目に見えて激化していた。



 柔らかな蒼く長い髪を靡かせ、狩夢は蒼穹を見上げる。
 代わり映えのしない世界。
 退屈な世界。
 かつての彼は、生まれたこの世界を、恨んでいたのかもしれない。

 彼は、今やこの世界を支えるもう1つの支えとなっていた。
 夢狩りを中心とした組織……。
 名もないこの勢力が生まれてから、どのくらい時が経っただろうか。

 彼は、憂うような目で空を見上げる。

 ―――生きることは罪だ。
 人の命を奪って、自分の命を勝ち取ってきた。
 しかし、それでしかこの望みを叶えることは出来なかった。

 赦されたいと思ったことなど、ない。
 夢見なかった訳ではなかったけれど。


 それでも傷つけ合うことは、人である以上必然なのだろうか。



・1・

「向こうで死んでないはずの人間が、こっちで生まれたぜ」

 サイザがいつものように、面倒くさそうに言葉を紡ぐ。
 しかし、その内容は今まで聞いた事もないような異常事態だった。
「死んでないのに生まれた……って」
「樹に呼ばれたか……じゃなきゃ、誰かの呪詛だな。こんなところに呼び出すなんて」
 忌々しげな彼の口調に、焦りを見出す。
 狩夢は、それを理解して苦笑を零した。
「……そうだね。死ぬ前にここを知ることは苦しみだ。……死んでからもこんな世界だと知ってしまうことは」
 知らず沈んだ声になってしまう僕に、サイザは声を投げる。
「なんだよ狩夢。お前らしくねえな、そんなこと言って……」
「そう、かな」
「ま、どうでもいいけどな。それよりどう対処するつもりだ?こっちで保護するのか?」
「そうだね……七の賢き者の中に、君の知り合いがいたね。彼はどうかな」

 七の賢き者。
 いわば夢狩りの眷属とも言える彼らを、しかし知るものは少ない。
 どこにも属さず、皆、隠者として生活している。
 サイザに、そのうちの一人が友人であることは以前から聞き知っていたため、狩夢はそう提案した。
 しかし、サイザはその狩夢の言葉に一瞬渋面をつくる。

「ネイロか? ……まあ、いいけど」
「? 何か問題があるのか?」
「……いや、あいつ、情に流されやすいところあるから……まあ、大丈夫だろうけど」
「……そう?」
「急がないと奴らのどちらかにでも何かされかねないだろ。今すぐに頼れるのがあいつだけってのは事実だし」
「うん……ごめん。僕が何とか出来ればいいんだろうけど……」
「今やお前は夢狩りの総帥だもんな。たった一つのイレギュラーに入れ込むことは出来ないか」
「そういうわけじゃ……」
「冗談だよ。じゃあ、伝えに行ってくる」
 笑みを残して、サイザは姿を消す。
 狩夢は、その瞬間を見計らって、そっと息を吐いた。


 楽園と呼ぶにふさわしいこの世界に、そもそも争いなんて必要なかった。

 やがて向こうから此処にやって来る、選ばれて生まれた子供たちの命。
 向こうで死ねば、こちらに生まれ、この世界でまた生きていく。
 生はいつまでも途絶えぬ因果だ。
 魂がある限り、命がある限り、どんなに苦しくても哀しくても、生きることそれ自体が義務だ。

 世界にも色々ある。
 それでいいはずなのに。

 争いは絶えない。
 人が人である限り、集団を作り、派閥を作り、異端なものを恐れ、忌み嫌う心は同じだ。
 超越した異端なものは、畏怖の対象になり、いずれ崇められるようになる。
 馴染めないままの異端なものは、迫害され、阻害される。

 向こうの世界で生きていたものの魂は、こちらの世界には多大なエネルギーとなる。
 向こうの世界とこちらの世界では、所詮別のものなのだ。
 相反する世界の物質たちは反発しあい、熱を持ち始める。

 前例がなくてもわかる。
 向こうの世界に送るために、この世界のものではない『なにか』を与えているのは狩夢たち夢狩り……そして、生命の樹なのだから。

「大きな力は、争いの火種になりかねない……」

 呟くと、狩夢は静かに息をつく。

 確かに、こちらの世界での死は、向こうの世界での生にしかならない。
 しかし、異質なものに触れた者にとって、その法則は確かに働くのかは未知数だ。
 誰も、その異常事態に立ち会った者はいない。
 下手をすれば、魂の消滅を誘発しかねない状況に陥る可能性も捨て切れなかった。

 ならば、放って置くよりも、中間とされている狩夢たち夢狩りが保護するに越したことはない。

 楽園が楽園たるには、管理者が必要だ。
 それは、魂が生まれてからずっとこの世界にいる自分たちがなすべき仕事なのだと、狩夢は最近になって悟った。

 流れる雲の早さに、どこか胸騒ぎを覚えながら、狩夢は目を細めた。


 このところ異常事態は続いていた。
 手が回らないのは、なにもこれだけではなかったのだ。


・2・

「狩夢、様」

 リリカ、という夢狩りの少女が狩夢に話しかけてきたのは、その時が初めてだった。
 灰色の冷徹な彼女の瞳は、それでも恭しく狩夢を見ていた。
「なに?」
「先日生まれた子供たちのうちの一人が……セントに近づいています」
 重々しく開いた口から零れた言葉は、しかし重要なことではないようなことと思われた。
 リリカの言葉に、狩夢はなだめるように言葉をかける。
「信仰は自由なんじゃない? セントに行こうがカオスに行こうが、それには僕たちは関与できないよ」
「解っています。問題は……彼が……特殊だということです」
「特殊?」
「彼は、光の血の者の最上者の力に触れたようです」
「最上者……」
「そうです。彼らの力に触れてしまい、本来はなかったはずの闇の血の者の力を目覚めさせ始めています」
「……力が、目覚める……?」

 血の力は、こちらの世界に来て、以前の魂の記憶から、それが決まる筈であった。
 血の力は宿命。
 決まった人間にしか現れない筈だった。
 後天的に目覚めるなどという事態は前例がない。
 しかも、光の血に触れて、闇の血に目覚めるなど、聞いた事もなかった。

「どういうこと、なのでしょうか」
「わからない……」

 この世界に長く身を置く狩夢にも、その異常は前例のない事だった。
 生まれてくる時の血は絶対。
 それは魂に刻まれた遠い輪廻の記憶でもある。

 その力が、その血を持たなかった者に目覚めるなど、あってはならないものであった。

「その子の名前は?」
「ヒロム……だったかと」
「接触したのはソラ様?」
「ヒカリ様……のようです」
「ヒカリ様? ヒカリ様は臥せっていて誰にもお会いにならないと聞いていたけど……」
「その離宮に入り込んでしまったようなのです。本人も気づかぬうちに……それを私が見咎めて」
 申し訳なさそうに瞳を揺らす彼女に、狩夢は責めの言葉をかける気にはならなかった。
 自身を落ち着かせるように溜め息をつく。
「そうか……ご苦労だったね」
「いえ……望んでしている仕事ですから」
「……うん、ありがとう」
 微かに笑うと、リリカは一礼して去っていった。

 この重なる異変は何かの予兆なのだろうか。
 祈るように生命の樹を見上げるが、『彼女』は今日も何も喋らない。
 『彼女』が言葉を発さなくなったのも最近のことだ。
 今までも口数は多い方ではなかった。
 むしろ言葉を発するのは気まぐれな時だけだった。
 しかし、夢狩りの願いを叶える時は、必ずその声を聞かせてくれていたのに、それさえ最近はしなくなってしまった。

「何だっていうんだ、全く……」

 重い息を吐きながら、狩夢は生命の樹に背を向けた。



・3・

「離宮に入ったという奴はどこにいる」

 聖なる者、と呼ばれる者たちの傲慢な厳格さで、彼……ハゲネという男は問うた。
 老いない姿は、しかしけして若くはない。
 それでも、引き締まった体をしているその男は、セントの建立した教会の司祭であった。
 問われたリリカはその冷徹な灰色の瞳に侮蔑を込めて見遣る。

「さあ、どこへ行ったやら」
「貴様、隠す気か。夢狩りごときの分際で」

 鼻で嘲うと、負けじと冷徹な視線をリリカに降らせる。
 その夢狩りに情報を貰いに来たのはどこのどいつだ、と胸の裡で悪態をつきながら、リリカはハゲネを睨んだ。
 生命の樹の麓はいわば夢狩りたちのテリトリーだ。
 境界線などないが、その力を忌む者……特にセントの者などは好んで近づく場所ではなかった。
 この男は、離宮に侵入した子供の情報を得るためにここに来たのだ。
 その事実さえ認知していないとでも言うように、高慢な態度で彼は夢狩りを貶めるための言葉を続けた。

「他人の生命で己の生命を繋ぐものなど、下賤でしかないものを」
「生命ではない。記憶だ」
「同じこと。記憶は生命の軌跡だ」
「その下賤なくしてはお前たちは向こうの世界に行けないだろう」
「行けるさ。貴様らがいなければ我らがその仕事を賜るまでのこと」

 反論を許さぬ冷たさで、ハゲネは言い放つ。

「貴様らごときに仕事を与えているのは彼の母なる樹だ。仕事をする者が必要ならば、他の者に与えることも可能だろう」
「しかし与えられることはない。私たちがいるからな。そんなことを言ったところで所詮は妄想だ」

 冷ややかに彼女が言うと、苦りきった顔をしたハゲネは反論を諦めたのか、目的に論点を戻した。

「生まれることのできなかった魂になど用はないのだ。あの子供はどこにいる」
「知らないと言っている。私も探しているところだ」

 涼しい顔で言うリリカに、ハゲネはその言葉を信じる気にはならなかったらしい。
 侮蔑の色を濃くした瞳でハゲネはリリカを見下ろす。

「愚か者が。これは罪に値するぞ。我らの最高位に当たるヒカリ様に接触しようとした闇の血のものなど、我らに仇為す以外に何があると言うのだ。奴はヒカリ様を 滅ぼそうとしたに違いないのだ」
「愚か者はどちらだ。この身に誓ってあの子はヒカリ様に会うまでは普通の子だったのだ」
「貴様ら夢狩りは闇の者たちには目をつぶっている節があるからな。何を考えているのかわからん」
「よくそのような疑い深い心を持っていて聖なる者だと名乗れるな」
「広い心の証にその愚弄には目をつぶろう。もうよい。邪魔したな」

 あくまで厳然とした態度でハゲネが去ると、リリカはその後姿に凍てつくような視線を投げる。
 そして、それにも飽きたように溜め息をひとつ吐くと、今は臥せっている光の使者に想い馳せた。

「ヒカリ様……」

 ―――それは祈りにも似た想いだった。


・4・

「話はつけてきたぜ。ネイロは喜んでたな、変人でもやっぱり女の子は好きらしい」

 飄々とした態度で、サイザは狩夢に報告をしていた。
 その言葉に驚いたのは聞いていた狩夢だった。
「女の子だったのかい?」
「あれ、お前気づかなかったのか?鈍いなー」
 乾いたように笑って、サイザは息をつく。
「女の子だったんだよ……妙なことにならなきゃいいがな」
「……なに?」
「いや、こっちの話。そのうち向こうに帰す方法も考えなきゃな。そんで、例の子供はどうなった?」
「うん……見つかったことは見つかったんだけど……」
 疲れたような溜め息を吐いて、狩夢は続ける。
「一緒に生まれた子と兄弟みたいに仲がいいらしくてね。ずっと一緒に居たみたいなんだけど、闇の血に目覚めてからその子の負の感情が彼に流れ込んでくるのに戸惑ってるみたいで……ずっと逃げ回ってるみたいなんだ。一定した居所が掴めない」
「なんなんだかなぁ、それも。……生命の樹は?」
「……まだ、喋らない」
 雨の降ることのない永遠の蒼穹を見上げて、狩夢は最近癖になってしまっている溜め息を、今日何度目かで吐いた。
 それを見て、サイザはわざと明るい声を上げる。
「ま、お前があんまり気負うことじゃねえよ。どうにもならないもんはどうにもならないんだし。あいつが喋らないのは、またあいつの気まぐれかもしれないしな」
「……うん」
「とりあえず対策をとろう。俺はあの子がこっちに来た原因を探してみる。それが解れば帰す方法もわかるだろうしな。闇の血の子供はどうするんだ?」
「とりあえずリリカに担当してもらってる。カオスの方の集落に入れてもらえないか交渉してるらしいよ」
「そうか……お前はどうする?」
 サイザの問いに、狩夢は一瞬の躊躇いの後、決意したように瞳をあげた。
「……ソラ様に、会って来ようかと思ってる」
「ソラ様に?」
「うん。ヒカリ様に一番近いのはソラ様だろ?……ヒカリ様のことを聞こうと思って」
「そうか……セントの奴ら、夢狩りに反感持ってるから気をつけろよ?」
「うん、解ってる……僕らはもう夢狩りじゃないはずなんだけどね……」
「あいつらにとっちゃ同じだよ。誰も彼もみんな、俺たちに恨みのある奴らばかりだ」
「……そうだね」
 サイザの言葉に、狩夢はその瞳を揺らして、微かに笑った。



・5・

 セントは秩序を重んじる。
 それを体現するためにか、聖なるもの……光の血を持つ人々を祭る教会を数多く作っていた。
 生命の樹に一番近い場所にある教会。
 セントの地から遠く離れた場所にある教会付属の離宮に、ヒカリは身を潜めていた。

 心を病んだヒカリは、椅子に座ったまま何も見ない瞳で窓から外を見ていた。
 茫洋とした日々。
 それはヒカリにとって安寧の世界であった。

 目覚めは彼女の望むところではない。

 世界は今日も柔らかな日差しに包まれて、やさしい日々を繰り返す。
 誰も死ぬことはない。
 誰も死なない世界。

 この世は光で満ちていた。
 それは何も救われない世界だが、幸せな世界であった。

 ふと、その瞳に子供の姿が飛び込んできた。

 ―――見たことのない子供。

 普段は浮かんでこない思案が生まれる。

 彼女の日々の世界に人が現れることはイレギュラーなことであった。
 静の世界に現れた、突如とした動。

 なんともなしに見ていたとき、その子供は、自らの手では開けたことのない扉をノックする。

「はい」

 反射で声を返す。
 その反応は酷く懐かしい感覚を呼び起こした。

 重々しい音を立てて、少年は扉を開く。
 懐かしい外の匂いがした。

「すいませーん、道に迷っちゃって……生命の樹までの道を教えて欲しいんですけど……」

 聞いたことのない声。
 気負いのない声は、一瞬だけ、ヒカリの心を癒した。

「いらっしゃい。教えてあげるから、少しお話しましょう」

 自然と笑みがこぼれる。
 その笑みに誘われたのか、少年……ヒロムは、ヒカリのそばに歩み寄った。

「ここには人があんまり来ないの。人に会うのも久しぶりね……」

 ソラはここには来るが、彼女にとって重い記憶がある人物だから、素直に会話ができない。

「一人で、住んでるんですか?」
「いいえ、たくさんの人と住んでるわ……ただ、誰も私を知らないだけ」

 ―――ソラは、全部知っているけれど。

 ヒカリが悲しみを恐れていること。
 ヒカリが本当は人を愛していること。

 ソラを、何よりも大切に思っていることも。

「知らないって……」
「一緒に住んでいるだけじゃ、私のことを理解できないってこと」
「理解、できない?」
「そう……」

「……寂しいんですか?」
「…………そうね。寂しい」

 静かに瞳を伏せると、ヒロムは元気付けるように声をあげた。

「おれ、ヒロムって言うんです。貴方は?」
「……ヒカリ」
「ヒカリさん、俺が友達になりますよ。そうだ、今度俺の友達も連れてきます! いいですか?」
「……ありがとう。でもそれはできない。ここは本当は立ち入り禁止だもの。貴方は迷い込んできたのね」
「……え?」
「私は光の血の者。病に臥せって此処に隠遁している……そういうことよ」

 戸惑いを見せるヒロムに、安心させるように笑顔を見せた。
 相手が『あの』ヒカリであることを理解したのか、ヒロムは困惑を隠せないでいる。

 苦笑を浮かべながら、ヒカリは彼の手をとると額に当てた。
 そして、哀しげに言葉を紡ぐ。

「帰る道を教えてあげるわ」




 バッ、と、風を切るような音がした気がした。


 流れ込むヴィジョン。
 柔らかな丘陵、どこまでも続く空、聳え立つ巨大な樹……

 そこにはヒロムの帰りを待っているであろう少年……ルオンの姿が見えた。
 ルオンは泣きそうな顔をしている。

 ―――泣くな。

 自分の方が泣きそうな顔をしているのがわかる。
 それでも、その思いは消えなかった。

 ―――泣くな。また、会える……



 思考の途中でふいにそのヴィジョンは消えた。

 思わず手を離してしまっている自分が、そこにいた。
 沈黙が、降りる。

「……ごめんなさい……」

 謝ったのはヒカリだった。

「なに、が……」
「見てしまったでしょう?帰り道以外のものを」
「……」

 答えられずにいると、ヒカリは哀しげに再び瞳を伏せた。

「ごめんなさい……怖がらせてしまったわね。久しぶりに力を使った所為で、暴走してしまったみたい……」

 ごめんなさい、と繰り返すヒカリに、ヒロムは慣れない感覚を味わっていた。
 自分の物ではない感情が、どこからか流れ込んでくる。
 悲しみ、後悔、胸の痛み……

 ―――ヒカリ、様?


「何のことですか?」


 努めて明るい声を出して、ヒロムは笑顔を見せた。

「すごい力ですね!帰り道の映像がまだ目に残ってますよ。これなら帰れます」
「ヒロム君……」
「大丈夫です」

 流れ込んでくる感情は彼女のものだと唐突に理解した。
 見た映像が何を示すのかはわからなかったが、彼女の哀しみが払拭できるなら、言わない方がいいだろうと判断した。
 彼女は酷く心を痛めていた……崩壊してしまいそうなほどに。
 彼女の中の均衡を守るためには、ヒロムは嘘をつかなければならなかった。

「何も怖くなんてありません。……この力を怖がる人がいるんですか?」

 ヒカリの瞳が見開かれた。
 感情が途切れたのを感じて、なおさら優しく笑いかける。

「俺、此処にいたらご迷惑をおかけすることになるんですね……お邪魔しました。俺、帰ります」
「ヒロ……」
「ごめんなさい。もう此処には来れないみたいですね」
「……」

 泣きそうに歪むヒカリの顔に、ヒロムの心も締め付けられるように痛んだ。
 苦しい、寂しい、哀しい……
 ごめんなさい
 ごめんなさい
 ごめんなさい

 誰に対しての謝罪なのか、それも解らないまま、ヒロムはドアに近づいた。
 自分の感情なのか、彼女の感情なのかも曖昧だった。

 溢れそうになる涙を必死に隠しながら、ヒロムは振り返る。

「悲しまないでください。……また会えるといいですね」

 笑顔を残し、一礼すると、ヒロムはドアをくぐり、外へと帰っていった。

 ヒカリは、静かにヒロムが去っていくのを、釘付けにされたように、見詰めていた。




・6・

「俺もヒカリと話した人間がいたなんて、最初は信じなかったんだ」

 開口一番、ソラ様、と呼ばれる光の血の者の最上者は言った。
 柔らかい茶色の髪を揺らして、ソラは苦笑を零す。

 ヒカリとソラは、あちらの世界にいた頃から浅からぬ絆で結ばれていた。
 対の人間、と呼ぶに相応しい関係。
 しかし、あちらの世界でヒカリは相当な精神的ショックを受けたらしく、こちらに戻ってからというもの、ほとんど正気に戻ることはなかった。
 狩夢と比べ物にならないほど長きに渡ってこちらの世界にいたにもかかわらず、である。
 そのヒカリが、力をただの子供のために使った……しかも、その子供と正常な会話をしたというのだ。
 にわかに信じられることではなかった。
「では、ヒカリ様のところに子供が入り込んだことも知らなかったと?」
「ああ、後になって夢狩りの……リリカ、だったか? に報告してもらったんだ。」
 その節は世話になったな、と、ソラは屈託もなく笑う。
「いえ、リリカはヒカリ様に対して何か特別な感情を持っているらしくて……ヒカリ様を慕ってるみたいです」
「そうか……それにしても、このところは変な事が多いな。生きたままの魂がこっちに来たって?」
「はい……」
「生命の樹もこのところは話もしない、と……それに、ヒカリの力に触れて闇の血を目覚めさせた者、か」
「なんとか生命の樹だけでも言葉を聞かせてくれるといいんですけど……」
 縋るような狩夢の声に、ソラは静かに返す。
「樹が、弱ってるのかもしれないな」
「……弱って、いる?」
 それは、狩夢には考えもつかない言葉だった。

 この世界が互いに忌み嫌う者同士を生み出しても磐石でいられたのは、生命の樹のおかげだった。
 世界は、生命の樹の根が土地を保ち、生命の樹の枝が、天を支えている。
 人々の不安を優しげな光で包み込み、静かなる言葉で、人々を諌めた。
 争いは絶えないが、最小限ですんでいたのは、すべて生命の樹あってこそだと言っても過言ではない。

 生命の樹は、この世界の人々の支えでもあったのだ。

「俺にはその辺のことはわからないけどな。……ヒカリに会って行くか?」
「え……いいんですか?」
「いいさ。本当は心なんか病んでないんだ。ただ、人と会うのを恐れているだけで」
「恐れてる?」
「あっちで……俺を失ったからな」
 ソラは苦笑して続けた。
「色々あったんだよ、向こうにいたときは。だから、もう俺を失うことも無いとわかった今は、俺以外の誰か失うかもしれない人と親しくなるのを恐れてるんだ」
「そう、ですか……」
 狩夢はまだ夢狩りだった頃のことを思い出していた。
 人は自分が死ぬことと同様に、誰か大切な人を失うことを恐れている。
 そして、奪ってきたのは狩夢たち夢狩りだった。
「僕が……会っても大丈夫ですか?」
「何が?」
「……僕は、夢狩りだったんですよ? 今も、夢狩りの統括をしているのは僕です。僕は奪う側なんですよ」
「問題ない。ヒカリが恐れているのは失うことで、奪われたかどうかは過程でしかない」
「……そんなもの、ですか」
「そんなものだ」
 軽く笑うと、ソラは狩夢に背を向けた。



 ドアをくぐると、そこは白い部屋だった。
 部屋の形は正十六角形。
 円を描くように壁が取り巻いていた。
 窓は一続きになっていて、その一角の側に椅子が置いてある。
 その椅子に、ヒカリと呼ばれる女性が静かに佇んでいた。

「……ソラ?」

 ヒカリは何も映さないような虚ろな瞳で、彼らを見遣る。
 白の中に溶け込んでしまうような儚い存在感。
 緩く持ち上げた顔が、哀しみによどんでいた。
「ヒカリ、客が来たぞ」
「……客?」
 言われて初めて、ヒカリは狩夢の存在に気づいたらしい。
 一瞬、表情がこわばったのがわかった。
「はじめまして」
「…………」
 ヒカリはそれに返すことはない。
 ヒタ、と、狩夢に視線を寄越すだけだった。
「生命の樹について、どうなってるのか聞きたいんだと。お前、何か解るか?」
「生命の……樹……」
「あの樹が言葉を話さなくなって久しいだろ? 夢狩りの統括者が、その原因を知りたがっている」
 ソラのその言葉を受けて、ヒカリは何か意を得たように僅かに吐息を零した。
 しばらくすると、澱んだ視線を伏せて、ヒカリは黙り込む。
 下方から光が溢れてきたかと思うと、それに静かに瞳を遣って、再び瞳を閉じた。

 視線の先には水鏡のような幻影を生み出す。
 狩夢たちの目には何も見えなかったが、彼女には時を越えたヴィジョンを見ることが出来る。
 この力こそが、彼女が光の血の者の最高位者である所以であった。

「樹は……弱っている」

 ヒカリは、厳かに言葉を紡ぎ始める。
「原因は、大きすぎる力を飲み込んでしまったこと……」
「力?」
 それに疑問を呈するのはソラだ。
 狩夢には、その後に続く言葉が、なんとなくわかってしまった。
「向こうで死ぬ前に、こちらで生まれてきた魂……」
 やっぱり、という感慨が沸き起こる。
 重い息を吐き出すのを堪えて、狩夢はヒカリに問うた。
「その魂を呼んだのは誰なんですか? ……いったい、何の目的で?」
「呼んだのは……」

 言いかけて、ヒカリは一度口を閉ざす。
 伏せていた黒々とした瞳を、今度は生気を蘇えらせて、狩夢を見た。

「呼んだのは、光の者」

 恐ろしいほどの静けさをたたえて、宣託のようにヒカリは続ける。

「目的は――力……」

 怒りにも似た声の低さで呟くと、ヒカリは音もなく立ち上がった。

「……なんて、ことを……!」




・7・

 リリカはヒカリのいる教会の宮殿の巡回を怠ったことはなかった。
 それは、彼女がヒカリに対して抱く、憧れや尊敬の念がそうさせていた。

 リリカはヒカリに救われたことがある。
 たいした出来事ではなかったかもしれないが、リリカにとってそれはヒカリに心酔するに十分な理由であった。


 それは、ヒカリが心を病んでいるのだ、と聞かされる以前の話。

 月に一回の光の者たちの巡礼の日。
 死の気配に誘われて、リリカは教会の近くまで迷い込んでいた。

 教会までの道は入り組み、まるで迷路のようになっている。
 レンガ造りの壁が舐めるように道を囲み、歩を進めるうちに自分の立つ位置がどこにあるのか、解らなくなってくる。
 虚ろな目で、あたりを見回すが、もうどの方向に進めばこの迷路を抜け出せるのか解らなかった。

 教会までの道のりは、光の者にしかわからないように、微弱な結界が張り巡らされていた。
 その所為で、この道に迷い込むものは教会前の広場に出るように設計されていた。

 結界の所為で感覚がおかしくなっていた。
 息も荒く、目眩が酷い。


 リリカは他の夢狩りたちよりも感覚が鋭い。
 死の気配を感じ取る力は、誰よりも強い。
 ただし、それは諸刃の剣でもある。
 強すぎる力は同時に体に対する影響も強い。
 このように、能力酔い、とでも言うような症状に悩まされるのも珍しいことではなかった。


 虚ろな目であたりを見回す。
 正面に権威を誇示するような教会。
 それに並立するように建てられた、少し小さめの離宮。
 誰かが居住するなら、こちらの方だろうと思えた。

 人が来ないうちに立ち去ろうとする。
 騒ぎになってまた光の者たちに囲まれるのは耐えがたかった。

 リリカが光の者と呼ばれる存在に感じるものは、聖なるものの雰囲気ではなく、傲慢さや他者に対する辛辣さだけだった。
 あの射抜くような視線に晒されるのは、耐えられなかった。

 その力は、夢狩りというよりも、闇の血の者の力に近いのかもしれない。
 リリカはそう自嘲していた。
 ―――夢狩りと闇の血の者の亜種など、聞いたこともない。


 早々に立ち去ろう、と、来た道を振り返るその瞬間。
 離宮から誰かが出てくるような音がした。

 ハッとして後ろを振り返る。
 出てきたのは司祭のハゲネという男だった。
 幸いこちらには気づいていないが、目と鼻の先にいるリリカに気づくのは数瞬後のことであろうと思われた。
 隠れることも出来ない。
 逃げられない。
 ―――素直に、彼らの責めを受けようか……
 そんな諦めにも似た感慨が浮かんだ瞬間。

 ハゲネの後ろから、紛れもない聖なる者の気配を感じた。
 白く、裾の長いドレスを身に纏い、黒の髪を靡かせた女性……。

 彼女が、ハゲネという男を呼び止めたのが判った。
 何事かを話すと、再び離宮の中へと呼び入れる。
 振り向きざまに、彼女と目があった気がした。

 ……逃げろ、と言われた気がした。

 その後、何とか無事迷路を抜け出し、生命の樹の麓へと戻ることが出来た。
 その時から、リリカにとってヒカリは真実の聖なる者であった。

 その日から、教会周辺は彼女の日々の巡回地点となった。


 ―――そんな彼女だからこそ、この異変に気づくのは誰よりも早かった。

 異質な死の気配。
 淀んだ空気、『間違った』死の気配……
 …………魂の腐食する臭いがした。


 そのことを狩夢に報告しようと生命の樹の麓まで訪ねていったが、狩夢は出かけているとサイザに言われた。

 夢狩りが集う場所。
 そこには、共同宿舎のようになっている施設がある。
 巨大なその宿舎には、宿舎自体よりも巨大な図書館がある。
 梯子を使わないと上には届かないほどの大きな書架。
 そこは、夢狩りたちが見てきた世界の、総てが集約されているといっても過言ではなかった。

 サイザは、最近来たという向こうで死ぬことなくこちらに生まれた魂を返す方法を探しているといっていた。
 聞くところによると、魂の名は『ヤマブキ』といい、女らしかった。

 書物に目を遣りながら、サイザは邪魔しているリリカを疎ましく思う様子もなく言葉をかける。
「ま、そのうち戻ってくるだろ。待ってるか?」
 飄々としたその口調の彼に、リリカはかぶりを振った。
「確かめに行ってきます、とだけ、伝えていただけますか?」
 リリカがそういうと、サイザはおどけたように肩をすくめて了承の意を伝えた。


 場所は教会の礼拝堂。
 その、地下から感じられるようだった。

 礼拝堂の紅い絨毯が引かれた通路を歩く。
 まとわりつく臭気は、歩を進めるごとに濃さを増していくようだ。
 たどり着いたのは祭壇の手前。
 四角く切り取られたような跡のある絨毯を見遣る。

 リリカは、決心したようにその方形を蹴った。
 ガタン、と音を立て、一度沈み込んだ床板は、その部分だけ横にスライドして、大きく口を開けた。
 見えたのは階段。
 その奥から、一段と濃密な死の臭いが立ち込めていた。

 ギリ、と、自分の鎌を構える。
 華奢なその鎌は、リリカが夢狩りとして生きていて、ずっと使ってきた形のものだった。

 階段を降りていく。
 螺旋状になった石造りの階段。
 壁もまた石造りで、触るとひやりと冷たかった。

 (まるで、あちらの世界で言う、『地獄』とやらに落ちていくようだ)
 そうひとりごちて、リリカは苦笑する。

 タン、と、最後の段を降り切る。
 そこは、礼拝堂と同じくらいの広さの空間が開けていた。

 教会の敷地内に、同じような祭礼場が作られているようだった。
 上の配置と鏡合わせになるような場所に、やはり祭壇があった。

「……う……っ」

 思わず息も詰まるほどの死臭。
 唯一、その祭壇は胸元の高さほどの上の祭壇とは違い、人の背丈ほどもあった。

 そして、奇妙なことにその祭壇には扉がついていた。
 不審に思ったリリカは、その取っ手に手を添える。

 重々しい音を立てて、その扉は開いた。

「…………!!!」

 ―――そこには、手首を上方の隅から延びる鎖に繋がれ、足には枷が嵌められた男が、息も絶え絶えになって閉じ込められていた。
 死臭は、この男から漂ってくるものであった。

「なんだ……これは……」

 思わず呟いてしまった言葉に、その男は反応した。
 縋るような瞳で、リリカを見る。

「もう、やめ、て……くだ、さい」

 苦しげに吐かれる言葉は、リリカに対してのようだった。

「……私は貴方を苦しめるために来たわけではない。……これを、外せばいいのか?」

 これ、と、リリカは鎖を指差す。
 男はガクリとうなだれると、力をなくした。

「……ちっ」

 舌打ちをして、しかし男を救おうと、手首の鎖を鎌でなぎ払う。
 簡単に切れたその鎖は、しかし、何かの術がかけられているようだった。
 体勢が崩れる感覚で男は再び意識を取り戻した。
 荒い息で、何とか言葉を紡ごうとする。
 リリカは脚の枷もなぎ払った。

「貴方の名は?」

 冷徹な灰色の目で、リリカは男に問うた。
 男はそれすら見えていないのか、苦しげに彼の名を紡いだ。

「ヤマ……ブキ……」
「ヤマブキ?」

 その名は聞いたことがあった。
 あちらで死ぬことなく、こちらで生まれてきた魂の名。
 しかし、その魂は女だと聞いていた。
「どういうことだ? 何故貴方は捕らわれている?」
 リリカの疑問に答えたのは、しかしその男の声ではなかった。

「贄だ。我らが力を手に入れるためのな」

 背後から突如威圧感のある声が聞こえた。
 ……ハゲネだった。

 ハゲネの後ろから、また幾人か続いて階段を降りてくるのが見えた。
 苦々しい思いで唇を噛み締め、その様子を見遣る。

 白を基調とした司祭の衣装。
 それに袖を通した司祭は、満足そうな笑顔をたたえてリリカに歩み寄ってくる。
「まさかお前が此処までたどり着くとはな」
 せせら笑うような調子で、ハゲネは瞳を眇める。

「……――贄とは、どういう意味だ」

 苦々しげに訊ねると、さも可笑しそうにハゲネは返す。

「そのままの意味だ。あちらで死ななかった魂は、こちらの世界では強大な力になる」

 後ろに続く、同じく白い服を纏った人々が言葉を続けた。
「光の血の者の中でも双璧と呼ばれるお二人は今はそのお力を滅多にお見せにならない」
「それどころか、ヒカリ様は力を発現させ、あろうことか闇の血を目覚めさせた」
「我らは清くなくてはならん……闇の血を目覚めさせる清い力などあるものか」
「そして、ヒカリ様が力を失い、双璧と呼ばれたソラ様はヒカリ様のお側につき従うだけ……」
「我らにはもう力がないも同然」
「カオスの奴ら、我らに脅威が無いと知れば、いつ襲ってくるやもしれん」
「争いを起こさぬために必要な力だ」
「我らには、世界に示す力が必要なのだ」

 ……口々に紡がれる言葉は、あながち間違いとは言えない内容ではあった。
 しかし、リリカはその言葉にただ呆れを隠せない。
 彼らは、力こそがこの世の争いの均衡を保つものだと疑ってはいないようだった。
 総てを統べるのはセント。
 そのような考えが蔓延しているのは知っていたが、まさか此処まで傲慢な考えだったとは、ついぞリリカも知らないことであった。

 本当に均衡を保っていたのは生命の樹であるというのに、彼らは自らの手でその樹の力を弱めてしまったことを知らないでいる。

「愚かな……」

 リリカは最大級の侮蔑を込めた視線で、ハゲネを見遣った。
 ハゲネはそれを感じ取り、僅かに気分を害したらしかった。
「ふん、貴様ごときに言われる筋合いの言葉ではないな。我らの存在意義に関ることなのだ。生きる価値さえない夢狩りには判らぬことであろうな」
 ハゲネはリリカを見下げ果てたように……しかし、どこか真摯にその言葉を吐いた。
 その姿に、リリカは僅かに違和感を感じる。
「その者の魂は、強い引力を持っていた。……見たところ光の血を持っているわけではなく、どうやら我らと意志を同じくする者ではないようだ。それを利用したまでのこと」
 やはり見下げ果てたような口調に、思い出したようにリリカはハゲネを睨む。
 ハゲネはそれを涼しい顔で受け流している。
「その者が持つ強い引力を使って……生きたままこちらに人の魂を呼び込むことを思いついたのだ」
 ふ、と力を抜いて、ハゲネは続ける。
「禁忌、かもしれないとは思ったがな。その罪を背負ってでも、我らはこれをなさねばならなかった」
 渋面を作る。しかし、その言葉はやはり傲然としていた。
 (また、だ……)
 リリカは、何か別の意図が彼らにあるのではないかと、一瞬思う。
 (何か、言っていることに違和感がある……)
「この者の魂を使って、向こうで生きていたままの魂を呼んだ……。だが、その行方は知れぬまま。……お前たちは闇の血を発現させたという者を匿うであろう。その行き先は闇の者の集落に他ならん。そうなれば、あやつがヒカリ様の力を介して闇の血を発現させたと知れるのも時間の問題であろう。……そうなれば、我らには身を守る術はなくなる」
 ハゲネは、倒れこんでいる男の髪を掴んで、顔を持ち上げる。
 そこに慈悲の姿などは見られなかった。
「やめろ!」
 そのあまりな行為に、リリカは感慨にふけっていた自身を叱咤する。
 (こんな奴らが……そんな人間らしい感情などもっているはずがない!)
「もうこやつは用済みだ。……貴様がこの場所を嗅ぎつけたということは、こやつの死も近いということであろう。……連れて行け」
「……な……っ」
「ただし、夢を狩るのはここでだ。……そして、このことは他言無用だ。言えば我らがお前をこの力で魂まで根絶させるだろう」
「……そんな言い分を、私が守ると思っているのか!」
 突如、激しい怒りが湧き起こり、リリカは激昂して叫んだ。
「貴様らの行いで生命の樹は言葉をなくした! 貴様らの行いは、セントたちだけの失態ではないのだ! この世界を崩壊させかねないことだったんだぞ!」
「ならば我らを殺すか? 夢狩り風情が」
「ころ……」
「我らを激情に任せて殺してもいいのか? そうした途端、貴様はその実体を亡くし、幽鬼となって永き時を過ごさねばならんぞ?」
「殺さずとも罰する方法はある!」
「それでも我らはこれが間違ったことだとは思っておらん。間違いを正すには、間違いを根絶せねば繰り返すだけだぞ」
 ぐっ、と、リリカは言葉に詰まる。
 確かに、彼らのような存在は彼らだけであるとは思えなかった。
 もしかすると、セントの大部分の者がこの考えに賛同するのかもしれなかった。
 カオスがセントを罰するとしたら、それは新たな争いの火種になるかもしれない。
 彼らを罰するとすれば、夢狩りの誰かになるであろう。
 しかし、誰が罰するというのだ。
 誰も、自分の身を引き換えにしてまで、この罪人たちを裁こうとするものがあるだろうか。

 ふと、狩無の顔が浮かぶ。

 彼は最早夢狩りではない。
 ならば、彼らを殺しても幽鬼になったりはしないだろう。
 (だが……)
 だが、そんなことをさせられる由縁もない。
 狩夢はリリカにとって、やはり掛け替えのない拠り所なのだ。
 (出来ない……)
 言葉が殺されるほどの激情。
 愚かさへの憤怒。

 もし罰することが叶ったとしても、それはやはり私刑でしかない。
 『法』という『正義』がないこの世界では、誰も誰かを裁く権利などないのだ。
 それが出来るのは、『神』と呼ばれる存在か、生命の樹か……

 どうすることも出来ない、自分の無力さ。
 その敗北感に、リリカが膝を突きかけた、その時。

「その必要はありません」

 この鬱々とした場には相応しくないほどの、凛とした声が響いた。



・8・

 突然歩みだしたヒカリに、一番戸惑ったのはソラだった。
 ヒカリはこの離宮に来て以来、自ら外に出ようとしたことなどなかったのだ。
 そんなソラの物思いを意に介さないように、ヒカリは早足で離宮を出た。
 向かう先は教会の礼拝堂。
 惑うことなく進むヒカリに、狩夢とソラは事態を理解することが出来ずに、ついていくのに精一杯だった。

 祭壇のすぐ手前に開いた大きな口。
 その階段を硬質な足音を立てて降りていく。
 夢狩りだった狩夢は、酷い死の気配が立ち込めているのに気がついた。
 息苦しいほどの死臭。
「大丈夫か?」
 何も感じないソラは、突然顔色を悪くした狩夢に気を使ってくれるが、それに答える余裕すら奪われそうだった。
「大丈夫……です」
 やんわりと締め付けてくるような苦痛を隠しながら、狩夢は苦笑した。

 降り切るとそこは開けた場所になっていた。
 礼拝堂を模写したような造り。
 違うのは、その方向と祭壇の大きさだった。

 死の気配はいたるところから感じられた。

 白の衣を纏った者たちと、奥の方にいる誰かが対峙している……。

 (リリカ……?)

 立ち込める死臭は、彼女にとっては狩夢よりも辛いであろうことは容易に想像できた。
 リリカの足元には、見知らぬ男が横たわっていた。
 彼の死の気配が一番強い。

 (しかし)

 死の気配。
 歪んだ死の気配はそれだけではなかった。
 あたり一面に広がる、『自然ではない』死の気配。
 ―――それは、リリカと対峙している、白を纏った者たちすべてから感じられた。

「貴方がた夢狩りがこの人たちを罰する必要はありません」

 透き通るような声で、ヒカリは言い下した。

「私が、この罪を罰します」

 その姿は、まさに向こうの世界で言う『天使』然としていて、清らかなものに思えた。

「貴方がたは力を欲した……それも、人の魂を、兵器として欲した」
 それは、狩夢がもっとも恐れていたことだった。
 大きすぎる力は、争いの火種になり……そして、争いのための力そのものにもなる。
 狩夢は苦しげに息を吐いた。
 狩夢の考えと違ったのは、その力は偶然生まれたのではなく、彼ら自身が、呼び出した、ということ。
「何故そこまで、愚かな行いをしてしまったのです……現に、その無理な行いの所為で、貴方がたの生命は尽きようとしている」
 そう、狩夢が先から感じていた死臭は、此処にいるセントの者たちすべてから感じられた。
 しかし、夢狩りであるはずのリリカの顔には、衝撃の色が見えた気がした。
 彼女は感覚が並よりも強いと聞いている。
 皮肉なことに、強すぎるその力の所為で、周りに漂う微弱な死の気配には気づけなかったのだろう。
 (これが終わったら……ちゃんと、訓練するように言わなきゃな……)
 そこまで思い至った狩夢は、そっと苦笑した。
「私は貴方がたの過去と未来を垣間見てきました。貴方がたは、此処でもうすぐ力尽きるでしょう。……誰一人、例外なく」
 ヒカリは宣託を下す。
 その言葉を受けると、ハゲネをはじめ白い人々は顔からスッと表情をなくした。
 そしてその後、ただひとり、ハゲネだけが皮肉げな笑みを浮かべた。

「それならば、我らは貴方までをも騙すことに成功したというわけだ」

 その笑顔には、いつも彼から感じられる傲然とした感じは受けられなかった。
 いっそ清々しい、といった感じで、ハゲネは続けた。

「我々は、貴方をお救いしたかった。……ヒカリ様」



 ――――リリカは、自分の体が脱力するのがわかった。
 それは、呆れた所為の虚脱なのか、それとも、怒りの所為なのか自分でも解らなかった。

 さっきその夢狩りに言ったことも我らの本心ではあるが、とハゲネは言った。
「……ヒカリ様は臥せっておられた。……永い間、ずっと」
 優しげな笑みで、ハゲネは続ける。
「我らはこれでも長生きをしている。お二人がが向こうに行かれたときも、再び戻って来られた時も、我々はこうして此処にいた。……だから、戻って来られた時、あまりの変わりようにどうしたら再びヒカリ様が光り輝ける存在に戻れるかを、ずっと探していた。そして、見つけたのだ」
 向こうで死ぬことなくこちらで生まれる魂が、力を持つということ。
「所詮我らにはあの大きすぎる力は御せん。それは解りきったことだった。だから、ヒカリ様にそれを取り込んでもらおうと画策したのだ。大きな力を手にすれば、きっとご病気も回復に向かうであろう、と……世界を人質にした、卑怯な手だがな」
 その力を放って置けば、いずれ世界の崩壊に繋がるということは、彼らは十分承知していたらしい。
 それが、生命の樹に起因することには、気づいていないようではあったが。
「お力が失われたのだと思っていたが……そうではなかったようですな、ヒカリ様」
 ハゲネが、総て捨ててしまったようなもの悲しい笑顔でそう言葉を紡いだ。
 ヒカリは、それを受けて、能面のような顔を作る。
「とんだ茶番だったな、皆の者」
 ハゲネが白の人々に向かって言うと、人々は声もなく嘆息した。
 ……苦笑にも似たそれに、リリカは嫌悪を感じることはなかった。
 そして、そんなことを思う自分に、かすかな嫌悪を感じていた。

「ヒカリ様、我らに鉄槌を」

 ハゲネが言う。
 ヒカリは未だ能面のような顔を崩さず…………ソラを見遣った。
 ヒカリの顔を見て、ソラは意を得た、というような表情を作り、苦笑する。

「いいよ、わかってる」
「ごめん、ね……」

 二人の間にしか通じない言葉で、彼らは会話を終了させる。
 ……と、ソラが宙に腕を掲げた。

 ハゲネは一瞬戸惑ったように瞳を瞠ったが、やがて声を荒げることもなくソラの動作を見詰める。
 ソラは、ハゲネたちに手をかざすと一瞬苦く顔を歪める。
「……滅びろ」
 静かな声で、絶対的なその言葉を吐く。
 途端、強風のような衝撃があたりに響いた。
 耳鳴りがするほどの圧迫感。
 総てを薙ぎ払うような質量。
 そして、重なる絶叫。

 ……しかし、それも一瞬で終わる。

 人々が居たところには、なにやら粉のようなものが山積みになっていた。
 痛みを伴う死。
 滅びの言葉は、ソラにしか使えない『光の血のもの』の力だった。
 彼は物体の時を自在に変えることが出来る。
 彼らの存在の時間を高速で早めたのだと判る。

 そして、その残骸の上。
 浮かんで見える複雑な色を放つ球体は、彼らの魂だと、夢狩り二人はすぐに理解した。

「リリカ」
 狩夢が声を掛けると、リリカは呆然としていた意識を取り戻した。
「狩夢、様……」
 今彼がそこにいることに気づいた、とでも言うように、リリカは狩夢に焦点を合わせた。
 それに苦笑して、リリカに今なすべきことを促す。

「……狩らなきゃ……生きてきた夢を」

 リリカは、その声に従う。
 何も考えられないような頭で、義務のように鎌を振りかぶる。
 (こんなにたくさんの人を、一度に狩るのは初めてだ……)
 パアン……と、夢を狩る音が地下の礼拝堂に響く。
 白くなっていく魂を見遣りながら、ヒカリはその表情をなくした顔に、涙を流した。

「………………さよなら」

 消え入りそうなその声を、聞きとがめた者はいなかった。



 生きる苦しみに最後まで抗った者が、リリカの側に横たわっている。
 魂はそこにあり、哀しみの色に染まっている。
 白き者たちの夢を狩り終えたリリカは、やっとその魂に向き合うことができた。
 もうじき死が迫っているというのに、彼はそっと笑う。

「妹が、いるんです」
 彼は言う。
「僕が呼んだのは、多分、妹の魂なんです」
 残された呼吸を、総て言葉に費やそうとしているかのように、彼は続けた。
「……かわいそうな子です。どうか、帰してやってください……まだ生きなければならない、あの世界へ」
 その言葉に頷いたのは、狩夢だった。
 今の言葉で、『ヤマブキ』という少女の身内なのだと理解した狩夢は、内心動揺しながらも、彼に告げる。
「今、その方法を探しているところです。……貴方も、もうすぐ向こうに帰ることになります」
 記憶は、何一つ残していないけれど。
 その言葉を飲み込むが、彼は総てを理解しているようだった。
「……ありがとう、ございます。どうか……」
 言葉の途中で、彼は言葉を紡ぐのをやめた。
 虫の息の彼に向かって、リリカは再び鎌を構える。

 冷徹な灰色の瞳は、優しげな光を宿した魂に、自らの刃をつきたてた。



・9・

 サイザは、図書館で文献を漁っている狩夢の姿を見つけた。
 狩夢は、あれから『ヤマブキ』という少女を帰すための手筈を調べていたのだ。
 どことなく気迫を感じさせる姿に、僅かに嘆息して、サイザは狩夢の側に向かう。

「あの子を帰す算段が見つかったぜ」
 どこか暗い様子で、サイザは狩夢に報告をした。
「……とんでもねえ内容だがな」
 苦々しげに呟くサイザに、狩夢は瞳を瞠り、その説明の先を促す。

「生命の樹が弱った、って話だったよな? そこから考えて、その原因は大きすぎる力……つまり、向こうで死んでない魂をこちらに通したことだ」
 バサッ、と、計算式のようなものが書かれている紙を、机の上に広げると、サイザは狩夢の席の向かい側の椅子に座る。
「生命の樹がもう一度質量の多い魂を通すためには、それと同じ量の力が必要だ。……つまり、こちらで生きている人間の、『不自然な死』が必要になる」
 トントン、と、苛立たしいように指で机を弾くサイザ。
 狩夢はその指を見ながら、重い気分でその言葉に返す。
「……やっぱり、それ以外の方法はないのかな……」
「お前もその結論出してたのか」
 意外そうに言うサイザに、狩夢は苦笑する。
「……他にあれば、と思ってたんだけど……」
 疲れたように、狩夢は頬杖をつく。
 サイザは、狩夢に瞳を合わせないようにして、言葉を続けた。
「ネイロが……生贄になる、って言うんだ」
 拗ねたような口調で、続ける。
「あいつ……やっぱり情に溺れやがった……馬鹿だよ……」
「…………」
 狩夢は、そのサイザの横顔を見詰めていた。
 友を殺すことになる。
 それは、いかな夢狩りの宿命であろうとも、耐え難いことに変わりはなかった。
「……僕が、行こうか?」
 それは、引き返すことのない取引。
 自ら身を捧げると言った者に対しての、無慈悲なまでの了承。
「……いや、俺が行く」
「……そう」
 狩夢は、そこで手にしていた本のページを閉じた。
 もう、手立てを探すのは無駄に思えた。
「生命の樹の回復は……まだ見込めないだろうね」
「……そうだな。ま、あいつのことだから、そのうちしゃあしゃあと俺たちに話しかけてくるさ」
「…………うん」
 サイザの言葉に、狩夢は泣きたくなるのを堪えて、笑う。
 その顔を見て、話題を変えようとサイザが口を開く。
「そういや、例の闇の血を発現させた奴はどうなった?」
「……この間、リリカが狩ったって。……無理な覚醒だったから、多分、保たなかったんだろうね……」
「……そう、か」
「うん」
 しばし、沈黙が降りる。
 話題提供に失敗したサイザは、バツが悪そうにそっぽを向いたままだ。
 その様子を見て、狩夢はクスリと笑う。
 そして、最近になって聞いた明るい話題を振る。
「そういえば、ヒカリ様が、離宮をお離れになるそうだよ」
「……え、って病気は」
「病んでいたのは心。……甘えるのは辞めるんだって仰ってた」
「甘える?」
 心底不思議そうな顔をするサイザに、狩夢は微笑みながら答える。
「理解されないことに、甘えていたんだって。そういう中途半端な態度が、いろんな誤解を招いたんだってことを知ったから、もう、理解されないことに甘えるのを辞めるって」
「……よくわかんねえな」
「うん、僕も」
 クスクスと笑う狩夢の顔には、先ほどまでの影は見当たらなかった。
 それを認めたサイザは、席を立ち上がる。
「じゃあ、一仕事してくるか」
「……うん」
 一変して哀しげな色になる狩夢の表情に、サイザはおどけて笑う。
「そんな顔すんなって。あいつだって、惚れた女のために死ねるなら本望だろ」
「サイザ……」
「俺なら大丈夫だから。……あいつだって、魂の消滅が早まるだけだよ。もう十分すぎるほど生きたろうしな」
「……彼の、お弟子さんについては?」
「それももう話はついてるよ。……お前が浸ってるのはただの感傷! あいつが自分で決めたことなんだから、お前が気にしても仕方ないんだよ」
 サイザは優しげに狩無の髪に手をやった。
 クシャ、と弄ぶと、サイザは悪戯っぽく笑う。
 それにつられて、狩夢も少し笑顔になった。
「外まで、送るよ」
「何だそれ、わかんねえ奴だなぁ、お前も」
 悪態をつきながらも、サイザは狩夢と共に図書館を出る狭い通路を歩いていく。

 細く続く薄暗い通路の先のドアの向こう。
 そこには限りなく続く蒼穹と柔らかな丘陵。

 そして、この世界を支える生命の樹が、物言わずにそこに佇んでいた。



Los/t/Angels end.


close
また長いものを一息に置いてごめんなさいι
どこで切ったものか解らなかったので……面倒だったし(笑)

ハゲネ……という名前は、登場させようとした日に習った西洋の絵画の授業に出てきた名前だったかと思います(笑)
ドイツだったかな……
別に禿げてはいません(笑)

ネイロとヤマブキが向こうさんの一人が書いたもののキャラなので、こっちでは見れません。
せっかく深く切り込んで書いたのですがね……(笑)
私的ロスエン話はまだ序盤にも行ってません。(気の長い話w)
そろそろ話がリンクしている長編の方も更新しないといけない状況になってきましたな……ι


2005.10.26