カ ナ リ ア




――歌 ヲ 忘レタ カナリア ハ――




 ああ、また歌っている。




 甘い旋律。
 トシさんが、憂いげに空を眺めながら、いつも歌う歌。

 意味は判らない。
 トシさんは、上の空になった瞬間に、いつもこの歌を歌う。






歌 ヲ 忘レタ カナリア ハ
後ロ ノ 山 ニ 棄テマショカ







 障子越しの光。
 それに向かい合うかのように座って、文机の上で肘をつく。

 そこがトシさんの指定席。


 トシさんはいつでも物憂げ。
 空を見上げては歌を歌い、時折思い出したようにカリカリと万年筆を走らせる。

 こちらを振り向くのは本当に偶に。
 人は滅多に訪ねてこないし、外へ出ることもない。




イエイエ ソレハ カワイソウ




 優しい声。
 掠れたような、苦しげな声。


 こちらを向いて欲しい。
 その一心で、私も一緒に歌を歌う。

 ああ、どうしよう。
 なんだか泣き出してしまいそう。


 こっちを向いて。
 こっちを向いて。


 私には、貴方の心は判らないけれど。
 貴方に笑いかけて欲しいの。






 ふと、トシさんがこちらを向いた。
 きょろきょろと忙しなく辺りを見回す。
 こちらを向いてくれたことが嬉しくて、でも少し驚いて。
 私は思わず声を上げた。

 優しい瞳が私を捉えて、

「……お前、今何か言ったか?」

 優しく頬を撫ぜてくれる。

 ええ、私、トシさんをずっと呼んでいたの。
 聞こえたの?
 ……そう、聞こえたのね。



 春。
 朧な陽射しも柔らかく、花咲き乱れる美しい季節。

 ある日トシさんは、珍しく朝から私の相手をしてくれた。

 私の口ばしに少し触れて、桜の花びらを乗せる。
 微かに香るそれ越しに息を吸って、私はそれを口に含んだ。
 ベルベットの舌触り。


 

歌ヲ 忘レタ カナリア ハ
背戸ノ 小藪ニ 埋ケマショカ




 ふい、と、トシさんは私から目を逸らす。
 風のようにトシさんの心は気まぐれ。
 すぐに私には興味をなくして、いつものように窓辺に侍る。



イエイエ ソレハ ナリマセヌ



 トシさん。
 私は貴方の心が知りたいの。
 私では無理かしら?
 籠に囚われた虜囚のような私では。

 空が、まるでトシさんを奪っていくように、明るい。






 夜。
 人を狂わす朧月夜のよる夜中。

 月明かりの照らす部屋の中で、私の四肢は艶やかに白く。

 見たこともない身体。
 見たことのない色。
 知らなかった視線。
 知らなかった感触。

 少し肌寒い空気に身を震わせると、すっかり寝入ってしまっていたトシさんが目を覚ました。

「……君、は……」

 声が聞こえる。
 けれども、意思は通じなくて。

 絡む腕。
 暖かな胸。
 柔らかな毛布。
 狂おしい接吻。





――歌ヲ 忘レタ カナリア ハ
柳ノ 鞭デ ブチマショカ――




 割り開かれる苦痛。
 引き裂かれる胸。
 悦びと哀しみ。
 嗚呼、嗚呼、ただ貴方が愛しい。



――イエイエ ソレハ カワイソウ――




 嗚呼、ただ貴方が、愛しい。
























 息苦しさで目が覚める。
 身体を見つめる。
 けれどそれはいつものように、羽で覆われていて。

 見回せばそこは、やはりいつもどおり鳥籠の中。
 トシさんは寝乱れた様子で、それでも寝息を立てて。
 薄明るくなった空、障子越しにもそれがわかって。
 ああ、夢だったのだと、私は再び眠りについた。





 その日から、私は歌うことをやめた。
 トシさんに、全身隈なく抱きしめられた、あの感触が忘れられずにいたから。
 ああ、私は人ではない。
 私は、空を飛ぶ生き物なのだけれど。


 その日から、トシさんは歌うことをやめた。
 歌うことさえ忘れたように、ただ呆然と空を眺める日々が続いた。
 ああ、トシさんは空に憧れている。
 まるで、恋焦がれてでもいるように。


 流れる沈黙は容赦なく。
 外から漏れ入ってくる、他の鳥たちの声が聞こえる。
 まるきりあるべき姿と逆様な私たちを、嘲笑うかのように。



 ふと、正気に戻ったようにトシさんが私を見る。
 浅く息を吐いて、遠くから見るように近くから見る。

 トシさんの心が、判らない。
 皮肉げに笑って、トシさんが、

「歌を忘れたカナリア……か」

 と、呟いた。





歌ヲ 忘レタ カナリア ハ
象牙ノ 舟ニ 銀ノ カイ






 白くまあるい月が昇る。
 こうして今日も夜が来た。

 トシさんは何処か楽しそうに笑いながら、おもむろに私の籠を持ち出した。



 覚えている限りでは初めての外。
 はしゃぐ私に、トシさんが口を開いた。
 それは久しぶりに聞く、トシさんの歌う歌。




象牙ノ 舟ニ 銀ノ カイ
月夜ノ 海ニ 浮カベレバ
忘レタ 歌ヲ 思イ出ス





 籠が開かれた。
 トシさんの手は白く、象牙のように艶めいて。
 私がその掌に飛び乗ると、キラリ、と、私の爪が光る。
 トシさんの手が舟なら、私の爪は銀色の櫂ね。


 月の映る小さな池。
 生き物は寝静まり、水面は凪いでいた。

 トシさんはその水面に手を伸ばす。
 私が逃げないことを知っているかのように、けれど、そっと。


 水が冷たい。
 腹まで水が浸かり、羽が濡れた。

 これじゃしばらく飛べないわ。

 すり、と、トシさんの手が私の身体を包み込む。
 大事なものを持つように、そっと。


 トシさん。
 水の底が黒いの。
 光が届いていないんだわ。


 トシさん。
 首まで浸かったら寒いわ。
 それに私、泳げない。


 トシさん。
 トシさん。
 トシさん、水が冷たいの。




 薄れていく意識の中。
 鳥籠の中に卵がひとつ、ころんと転がった音がした。






童謡「かなりあ」 作詞 西条八十

歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
いえいえ それはなりませぬ

歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
いえいえ それはかわいそう

歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す




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2006.8.26






中学時代に書いたのを掘り当ててしまったので出してみました。
なんか、今読むと……ねえ。
耽美系目指してたみたいですよ。
この辺りで読んでた漫画に影響されたのは覚えています。
名前忘れたけど。


恋愛ものだよー。こんなの書いてるってことはかなり前だよー(笑)

あー恥ずかしい。




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