触れることすら、罪だと言うのなら。 この血すべてを棄てて、贖うから。 どうか、君のぬくもりを知りたいと願う、僕のあさましい心を赦して。 この、泡沫の恋を。 bitter sweet 〜side S〜 * 強すぎる夏の陽射しが、教室を照らしていた。 痛いほど紅い、血のような夕陽。 その陽射しに刺されるのを楽しむように、樋口静羅はぼんやりと窓際で外を見ていた。 病室とは切っても切れない縁がある。 ようやく手に入れた自由は、しかし期限付きのものだった。 この熱線が穏やかになる頃には、静羅は再び病室戻ることが決定していた。 そのことに、彼は僅かに落胆し、安堵もしていた。 (……間違ってるんだ、こんなのは) 苦々しく口の中で繰り返す言葉は、同時に裂くように胸を痛めつける。 絶対に、悟られてはいけない想いだった。 このままの距離が保てるなら、絶対に口に出すつもりのない想い。 「……樋口、くん?」 突然声を掛けられて、静羅は微かに肩を震わせた。 振り向くと、見慣れた制服姿の少女の姿があった。 最近、とみに静羅に対して話しかけてくる、近江加絵だった。 「なに? 近江さん」 今まで胸の裡を凌駕していた不快な思いを完全に払拭できないままに声を返す。 加絵は、少し躊躇ったのち、再びその口を開く。 「帰らない……の?」 「うん、瑛待ってるんだ」 「……そう」 しゅん、とした風に、加絵は言葉を切った。 何も言わずに、それでもそこに立ち尽くした少女に、たまらず静羅は言葉をかける。 「どうしたの? なにか……あった?」 陽射しが項に照り付けて、じりじりと灼ける感覚がする。 加絵は、思い切ったように顔をあげた。 「樋口君って、いつも玉環君のこと見てるよね」 その言葉に、静羅は微かに動揺する。 悟られてはいけない、という思いと、どうして、という思いが一気に去来する。 「なんの、話?」 動揺を隠すように、軽く答える。 それに怯んだ様子もなく、加絵は言葉を続けた。 「解るよ。私も、ずっと樋口君を見てたから」 その言葉に、静羅は目を瞠った。 そして、取り繕うように笑みを浮かべる。 「何、言って……っ」 言葉を発した途端に、乾いていた唇が割れた。 急激な痛みに、心臓がどくどくと波打つ。 痛みに顔を顰めた静羅に、追い討ちをかけるように加絵は畳み掛けた。 「私、樋口君が好きなの」 決然と、宣言するように加絵は言った。 「……でも、私……知ってるから」 顔に陰を落しながら、加絵は続ける。 「返事を今聞くつもりはないの……結果も、わかってるから」 ただ、と、小さく付け足して、彼女は小さく笑った。 何をされるかわからないうちに、彼女の顔が近づいて、唇に柔らかな感触を感じた。 ……血を、舐めとるように。 「これだけは、貰ってくね」 それが、口付けを意味するのか、……静羅の血を意味するのか、彼にはわからなかった。 「何で逃げなかったんだ?」 聞きなれた低めの声で、静羅は我に返った。 途端、酷く動揺した静羅は、それでもその動揺を瑛に見せることはしなかった。 「瑛」 その名を呼ぶことで、自分を落ち着かせようとする。 (見られた……) 今彼が気になるのは、それだけだった。 彼の胸のうちには複雑な感情が湧き起こっていた。 (気付いて) (気付かないで) 相反する思いが、胸の裡でせめぎあう。 こんな感情、知られたくない。 でも、知ったら彼はどう反応するだろうか。 少しでも、自分を思ってくれたら……と。 しかし、そんな不毛な葛藤に自分で嫌気が差した。 思わず自嘲の笑みがこぼれる。 「見てたんだ……」 自分で口にした言葉に、しばらく落胆する。 「……逃げられる状況じゃなかっただろ?女の子って怖いね」 そう……怖い。 自分の持っている病気を知っているくせに、彼女は、この血を体に取り込んだ。 なんて捨て身な行為。 それでも、笑って誤魔化す。 彼のため……自分の、為に。 それを知ってか知らずか無神経にも、気にせぬ風に加絵への答えを聞いてくる瑛に、少し絶望する。 気が重くなって、誤魔化そうとすることさえ、億劫だった。 ** 決まっていた入院の日々。 恐ろしく退屈で、しかし、どこか安堵を感じながら、静羅は窓の外を見続けていた。 昔から、外の世界はいつだってどこか遠い存在だった。 特に外に出たいという強い願望はなかったが、ただ、陽の光を浴びるのは好きだった。 ……瑛が、あれからどこか静羅に対して距離を置くようになった。 何故なのか、静羅には見当がつかなかった。 嫌われたのだろうか、友達でさえいてくれないのだろうか。 瑛と口さえ聞かなくなってしまった最近では、学校は酷く居心地の悪い場所に変わっていた。 だからこそ、彼に会えない日々は安寧の日々で、けれど、同時に苦痛の日々になっている。 夏が終わろうとしていた。 夕暮れが近づくと、紅い空にカナカナ……とヒグラシの声が響く。 一人では広すぎる6人部屋の窓際のベッドで、静羅は静かに息をついた。 静か過ぎる廊下から人が歩いてくる気配がして無意識に振り返ると、彼女がこの病室に入ってきたところだった。 その姿に既視感を覚えて、ああ、あの時だ、と嘆息する。 「……樋口君、具合どう?」 おずおず、といった様子で、彼女が話しかけてくる。 「まあ……可もなく不可もなく」 苦笑するように言うと、彼女は静かに瞳を伏せた。 「これ、連絡のプリント。修学旅行のお知らせとかあるから」 「……修学旅行?」 「そう、来年の。行き先、沖縄だって」 何とか会話を弾ませようと、彼女が笑う。 「そっか……でも、僕はきっと行けないな……」 ぼそり、と呟いた言葉を聞きとがめて、加絵ははっと口をつぐんだ。 そして、怒ったように頬を膨らませる。 「ダメだよ! 樋口君が行かなきゃ、誰が玉環君の面倒見るの?」 彼浮いてるんだからね!という言葉で、静羅は思わず吹き出してしまった。 「なんだよそれ、僕って瑛の世話係なんだ?」 「そうだよ。玉環君、樋口君がいないとほんとに魂の抜け殻って感じ!」 拗ねたように言う彼女のそのしぐさが可愛らしくて、思わず微笑んでしまった。 ふと、その彼女の表情が翳る。 「だから……そんな風に言わないでよ」 「……うん、ごめん」 ふいに静けさが気まずさを呼ぶ。 さっきまで聞こえなくなっていたヒグラシが、また耳につきはじめた。 沈黙を破ったのは、やはり彼女だった。 「やっぱり、玉環君のこと……すき、なの?」 核心をついた彼女の言葉に、静羅は嘘を吐く気にはなれなかった。 自分への自嘲もこめて、吐息と共に、応える。 「……うん」 「……そう……」 再び、沈黙が訪れる。 加絵が、静かに手をベッドの手すりに置いて、意味もなく握ったり離したりしている。 「近江さん、さ……」 「ん?」 「あの時……その……」 自分の血に、気付いていたのか。 それが聞きたくて、でも聞くのは怖くて、静羅は言葉を恐れた。 自分の血は、発病の元なのだと知っているのか? 知らずに血を舐めとってしまっていたら……。 怖かった。 自分の血で死んでいく人は、もう見たくなかった……母のように。 「……HIVって、空気と水に弱いんだって」 ふいに、彼女が言った言葉にひかれる。 「……どんな病気か知りたくて、いろいろ調べたの。調べれば調べるほど、切ない病気だって思った」 「どう、して……」 「子供、作れなかったりするでしょ?」 体を繋げて、愛し合うことも。 言いにくいことをさらりと言って、加絵は穏やかに笑んだ。 「知れば知るほど、苦しいほど切ないのに玉環君ばかり見ている樋口君を見てて、強いな、って思った。 その強さを知ったら……好きになってた」 握りしめた手が、微かに震えている。 それでも彼女は続けた。 「私が、その視線の先になれないかな、って、ずっと思ってた。……玉環君、鈍いし」 「……そうだね」 泣きそうな顔でクスリと笑う彼女に、僕も笑い返した。 どうしようもなく、切ない思いで。 「感染した確率は五分ってところだから、気にしないでね」 あっさりと静羅が聞きたかったことを言うと、加絵は身を翻した。 肩が震えている。 「ごめん、ね……」 「謝らないでよ……」 振り向くことなく、彼女が言う。 かける言葉もなく、静羅は瞳を伏せる。 「今度は、玉環君連れてきてあげるから」 震える声で彼女は言って、振り向くことなく帰っていった。 *** 「樋口」 酷く懐かしいような声で呼ばれて、しかし違和感を感じながら、静羅は振り返った。 彼が、自分のことを名字で呼んでいた時期は、当に過ぎていたから。 自分との距離を置きたがっているという事の表れかと思うと少し悔しくて、意趣返しで彼を呼ぶ。 「あれ? 玉環君……だよね? 何でこんなところにいるの?」 「見舞い、来たら変か?」 (変。十分変だよ) 内心そんなことを思いながら、それでもどこかで喜んでいる自分が恨めしい。 はた、と気付いて、加絵がいないことに疑問を感じた静羅は、瑛に問うた。 「ああ、あいつ、引っ越したんだと」 (……そんなこと、聞いてなかった……) 複雑な思いが渦巻く中、それでも静羅はそれを瑛に悟られないように必死だった。 顔を合わせているのが辛くて、加絵が残していったノートをめくる。 瑛の視線と、真っ向に向き合うことは躊躇われた。 しばらくすると、静かな寝息が聞こえてきた。 静羅が相手をしないので、眠ってしまったらしい。 あんまりな神経に苦笑しながら、静羅は瑛の前髪にそっと手を伸ばした。 「馬鹿」 胸の奥がキリキリと痛い。 どうしてこんな思いを抱いてしまったんだろう。 側にいてくれたのが嬉しくてたまらなくて、ただそれだけなら良かったのに。 (君に、触れたくてたまらなくなった) その手の温もりを確かめたくて、抱きしめられたくて……愛されたかった。 絶対に叶えられてはいけないあさましい願い。 彼が自分のことを好きになってくれるなんてありえない。 だから、願ってはいけない、そんなことは。 自分の中に穴が開いたような感覚を埋めるために、静羅は常備しているチョコレートのパックを開けた。 途端、ふわりと甘い匂いが立ち込めた。 チョコレートは甘い方がいい。 甘く甘く口飽きするほど甘いものを噛み締める。 それでも、やっぱりそれはどこか苦くて・・・ 知らず、涙が溢れ出した。 **** 今まで言葉さえ交わさなかったのが嘘のように、瑛は頻繁に静羅の元を訪れるようになった。 小春日和の庭に、どうしても出たくなって、瑛を連れ出す。 見上げる空はどこまでも高く、美しかった。 久しぶりの空に、静羅は思わず声を上げてしまった。 やさしい沈黙が二人の間に下りた。 「近江さんさ、君に、何か言ってた?」 「……いや、別に、何も」 「そう」 (言われたんだ……) ひっそりと瑛のわかりやすさを笑うと、静羅は瑛の横顔をそっとみつめた。 「近江さんにキスされた時さ、僕、唇切れてたんだよね」 「それって……」 「うん、感染った……かもしれないよね」 さらりと言う静羅を、信じられないとでも言うように、瑛は瞳を瞠る。 「でも、顔色も普通だったし」 「発症までには時間がかかるんだよ。……発症しない場合も、あるけど……」 爆弾を仕掛けたのは、静羅だ。 たとえ彼女が、自分からそれを望んだのだとしても。 自嘲気味に嗤って、静羅は続ける。 「僕はもともと身体が弱い。今まで生きてこられたのが奇跡みたいだ……。 ……だからこそ、余計に不安になる。いつ、この命が途絶えてしまうのか」 哀しいほどの蒼を、見上げる。 「怖いな……死ぬのは」 君に、会えなくなるのは 「……うん」 「息が止まる瞬間は、やっぱり苦しいのかな」 今よりも? 「心臓が止まる瞬間、何考えるんだろう。」 君以外の事を? 「……魂って、あると思う?」 「……さあな」 「……無いといいな。僕はもう、耐えられない」 君に愛されることのない世界なんて。 「瑛」 縋るように、愛しい名前を呼ぶ。 沈黙は、肯定に思えた。 受け止めてくれるだろうか。 突き放されたりはしないだろうか。 伝えてもいいだろうか。 君の温もりが、ずっと欲しかった。 「好きだよ、瑛」 口に入れていた飴玉を、ぽとりと落としてしまったようだった。 「ずっと……好きだった」 過去形。 そう、これは終わらせなければいけない思い。 微かに震える唇に、自分のそれを重ね合わせる。 それだけで、今までの総てが報われた気がした。 そして、同時に深い絶望が襲う。 これで、最後だ。 「返事を貰うつもりはないよ。でも、もしも応えてくれる気になったら……」 泣きそうな自分を叱咤して、振り向く。 「明日、また来て」 きっともう、会えないけれど。 * 雨が、降っている。 見慣れた区切られた空から、雨粒が窓に叩きつけられているのがわかった。 ……酷く息苦しい。 一つ一つの呼吸が重労働で、空気が肺に入っていかないような気がした。 何とか手を動かして、ナースコールをするが、言葉がもう出ない。 やがて、医師たちが駆けつけてきた。 『おい! 何やってるんだ! 早くベッドを動かせ!』 『無理です! 壊れてます!』 『ええいこんなときに! ストレッチャー出せ!』 『患者のタグはどうした!』 『今持ってきます!』 『仕事が遅いんだよ!!』 怒鳴り声は、しかし遠くに聞こえた。 ああ、もうどうでもいいから、君に会いたい。 突然、周りの音が静かになった。 哀しいような、切ないような、泣きたくなるような感情が、ふいに浮き上がってくる。 湧き上がる熱いものが、涙だとはわからずに。 遠くかすむ白い天井の向こうに、君がいた気がして。 僕はそっと、手を伸ばした。 bitter sweet 〜side S〜 end. close いらない後書き。 やっとあげました、苦甘、静羅さんver.! ずっと書きたいと思ってたんですが、なかなか構想が出来なくて・・・。 ていうか! これ一晩であげたんですけどね!(笑) 書き始めたら以外にすらすらいっちゃいました。 夜の力のせいでしょうか? 読み返したら結構粗があったりして・・・。 自分で読み返して気になったら再び手を加えたいと思います。 とりあえずこれはこれで・・・。 Index(別窓)