白い紫陽花
その日は、雨が降っていた。
六月の初め。
梅雨前線の訪れか、もう一週間も降り続いていた。
その日、その袋小路に通りかかったのは私の単なる気まぐれで、偶然だったと思う。
突き当たりの家の塀から白い紫陽花が見えるだろうと前々からあたりをつけていて、私が白いワンピースを着ていたから、おそろいできっと素敵だと思ったのだ。
よく覚えていないけれど、そんなことを思っていた気がする。
そこには、先客がいた。
白いシャツを赤黒く染め替えて、銀色に煌くナイフを、静かに握っている、男だった。
足元に倒れているのは、白のワンピースの女。
ちょうど、私と同じような白のワンピース。
倒れた女の顔は、元は綺麗だろう面影を残して、それでもお世辞にも綺麗とは思えない形相で宙を睨む。
白のワンピースは、泥と血にまみれて、汚い。
男の瞳は、白のシャツとは対照的に真っ黒だった。
黒曜石の瞳は、艶っぽい光を宿して、私を捉える。
私の頭は、真っ白で。
飛び散った血が色づく白い紫陽花が、頭の中で無数の花を咲かせていた。
それから、どうやって家まで帰ったのか、よく覚えていない。
いつの間にか、手元にあったおろしたての白い傘が消えていて、帰る頃にはずぶぬれだった。
その日、私は気を失うように眠ってしまった。
泥のように眠るとは、このことかもしれない、と、何処かぼんやりと思いながら。
酷く疲れていた。
夢の中で、傘を持っていた手が、何かの感触を思い出していた。
手を、力いっぱい押し出すような。
そして、何かに押し返されるような感覚。
急に、泣きたくなる。
――あの男の人は、一体誰だったのだろう。
その思考にさえ、胸が締め付けられるようで。
目を開けばそこに、あの白い紫陽花。
あの人の瞳が、私を捕らえて離さない。
ぎしぎしと音を立てるかのように、緩慢に震える、肩。
紅い。
紅い、紅い。
花の白も、瞳の黒も、空の鼠色も。
すべて、紅くなっていく……。
「君、に……」
遠くで、声が聞こえた気がした。
突然、景色が変わった。
そこは、私の部屋だった。
ゆめ、と、自分の声ではないようなしゃがれた声。
雨に濡れたまま眠ってしまったらしい。
熱があるように、体が重い。
夢の内容が消えていく。
掴んだと思った真実が、手に取った砂のように、さらさらと零れ落ちていってしまう感覚。
テレビが、何か喚いていた。
焦燥感のようなものを感じて、私は再び外に出る。
真っ白だった私のワンピース。
今は、何か黒い跡がついている。
でも、そんなに気にならない。
少し、歩く時にバリバリと破片が落ちていくだけだもの。
道を行く人たちが、私を振り返る。
私を見て、何かを囁いている。
でも、そんなことは全然気にならない。
パタ、と、まるで何かにあやつられているように、私の足が止まった。
気がつくとそこは、あの袋小路。
雨に濡れて、黒さを増したアスファルトの上。
描き難かっただろうに、無理やり描いたチョークの跡。
何人かの野次馬と、それを押しとどめる警告色のテープ。
何処か硬そうな印象を受ける制服を着た、男の人たち。
人型に象られた白の線に、なんだか冗談のように滑稽な番号の札。
そのすぐそばに。
白く横たわる長い……
ああ、あれは、私の傘、だ。
冷たい雫が降ってきた。
ああ、今日もまた、雨、か……。
雨が降り出した。
雨だ。
ああ、傘を差さなくちゃ。
私は邪魔な人たちをよける。
障害となるテープもよける。
固そうな男たちもよける。
「傘、返して」
周りの空気がどよめいている。
男の一人が、私の手を掴んだ。
私の行く手を阻む者。
犯人ハ現場ニ戻ルトハヨク言ウガ……
「返して。傘がないと濡れちゃうでしょ。濡れるのはいやなの」
コレハ犯人ト自ラ……
「返して! 私の傘、返してよォ!」
ああ、目も眩むような白い紫陽花が、じっと私を見ている。
美しいけれど、その葉には何者をも寄せ付けない毒があるという。
条件さえそろえば、人をも殺せる花の匂い香る毒……。
美しいけれど、誰をも寄せ付けぬその、痛み。
雨が降る。
私がずっと残したいと思っていた、この黒い染みをも洗い流してしまうように。
「君は、本当の僕を知っても、愛していてくれるのだろうか」
「何言ってるの? 恥ずかしいなあ」
「君は、僕の本性を知らないんだ。だからこうやって僕のそばにいてくれる」
「全部を知ろうなんておこがましいこと思ってないわ。考えすぎるのは悪い癖だよ」
「うん……でも、不安なんだ。君は、本当の僕を知っても、愛していてくれる?」
「その時にならないとわからないわ。でも、今は愛してるわよ」
「……そう……なら、約束してくれ」
「何を?」
彼は、部屋のテーブルに活けてある、白い紫陽花をひと撫でして、淡く笑った。
「 」
「――え?」
「約束だよ。きっと……君に愛されたままなら、僕は……」
手を取られ、車に乗せられたときに、やっとこの人たちが警察だということに思い至る。
着ていた白いワンピースに染み付いた黒は……血だ、ということも、このときに思い至った。
それでも、頭に霧がかかったように、その事実は私に何の感慨ももたらさなかった。
隣で私の手を掴んだ男が問う。
君ガ二人ヲ殺シタノカイ?
「ふた、り……?」
私の脳裏に浮かぶのは、黒曜石の瞳だけ。
ああ、あの人は……。
「――知らないわ。私はあの人の瞳を見てしまっただけ」
自分の口が、自分のものではないように滑らかに言葉を紡ぐ。
眼に映る風景が、まるでスクリーンに映し出されているように、現実感がない。
「ねえ、あの人は……誰なの?」
問うている言葉さえも、汚濁した思考に飲まれていく。
――窓の外では、雨足は強くなるばかり。
警察に付き添われ、私はしばらくぶりに自分の部屋に帰ってきた。
連続殺人犯。
聞かされたところによると、私が見た黒の瞳の彼がそう呼ばれる犯罪者だということだった。
私はその、連続殺人犯に襲われて正当防衛、という位置づけらしい。
私の愛用していた傘は、先が尖っていてちょうどよい凶器になっていた。
男の眼球を串刺しにして、その先端は脳をも抉った。
正当防衛か、過剰防衛か。その判断のため、しばらく拘束されていた。
――いや、正直なところ、精神の薄弱傾向が見られたため、その判断もかねて……というところらしい。
どういう状況で殺してしまったのか、と何度も問われたが、私にはほとんど思い出せなかった。
ただ確かなのは、私と同じ白のワンピースを着た女の人が殺されていたのを見たことと、あの男の瞳を見たとたんに何が何やらわからなくなってしまったということだった。
しばらくぶりの、部屋まで至るエレベーターに乗る。
後ろからついてくる、女性警察官。
言葉は、今のところ交わされない。
彼は、狂ったように死を渇望し、そして死を恐れた殺人鬼だったのでしょう、と、偶々精神科医が講釈しているのを聞いた。
何処か詩を口ずさむように、彼は語る。
彼は死にたくて死にたくてたまらなかったんでしょう。
けれど同時に怖くて、死ぬのが怖くて、女性たちをその『実験台』にしていた……彼がどうやったら恐怖なくして死ねるかをね。
その証拠に、ほら、この彼女たちの写真――これは被害者のはずなんですが……ああ、刑事さんたちに検証しろって渡されたんですがね。
恍惚としている…というのかな。恐怖がないでしょう。
どういうわけか、最後の被害者にはそれがないんですが……
これは、一種何か催眠術のようなものをかけていたんじゃないかと思いますね。
しかも、生死に関わるのに解けないような、強力な奴です。
この男のことを調べるなら、その辺のこともちゃんと調べた方がいいかもしれませんね……まあ、私もそっち方面は素人ですから、なんとも言えないんですけどね。
エレベーターが止まった。
ややあっておもむろにドアが開く。
足音が嫌に耳に響く、白々しいほど静かな通路を通る。
ドアの前に立つと、後ろからついてきた彼女が大丈夫? と言いながら私の背を撫でて、鍵を渡してくれた。
黒曜石の瞳。
私はずっと、あの瞳だけは何処かで見ていたような気がしていた。
切なくなるような、哀しくなるような、ただ、何の感慨もなしには見つめられないあの瞳。
カチリ、と音を立て、扉を開く。
中から、青臭いような、何かが腐ったような臭いが漏れ出てきた。
一面が、雪景色のように白かった。
いや、本当は醜い茶色も混ざっていたけれど、私にはそれが、すべて白く、みずみずしい色に見えていた。
紫陽花だ。
白い紫陽花が、一面に敷き詰められていた。
それに引き込まれるかのように、一歩、部屋の中に歩を進める。
息苦しさを感じるけれど、もう気にしていられない。
一歩。
バサ、と、花が砕ける音がする。
ああ、何かが砕ける音がする。
何これ! という誰かの声――あの女の人、か。
それにかまわずに、私は花の中を歩く。
思い出した。
思い出した、彼は――
「次にこの紫陽花と一緒に僕を見たら――殺して欲しい」
「――え?」
「約束だよ。きっと……君に愛されたままなら、僕は……」
苦しみを知らずに、死ねるかもしれない。
紫陽花には毒がある、と教えてくれたのは彼だった。
出会った契機すら覚えていない。
何故あんなにそばにいたかも忘れてしまったけれど。
私は、彼を愛していた。
――そう、紫陽花には毒がある。
青酸系の毒。
条件さえそろえば、人の命さえ奪う、毒――
倒れていく体。
倒れていく、記憶の彼。
「君、に――」
君に愛されたまま死ねるのなら。
彼は、死に際まで笑っていた。
笑っていたのだ。
私は、彼に最高の至福を与えたのだ。
彼に、もう実験は必要なかった。
必要なかったのだ。
君に、愛されたまま死ねたのなら――
またそんな、恥ずかしいことを言う。
私が、貴方と離れられないほど愛していたことを、知っていたくせに。
「迎えに来たよ、君を」
遠くで、誰かの叫び声が聞こえた。
ああ、目も眩むほどの、白い紫陽花の――
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