「枕返しの代償」





 探偵、榎木津礼二郎が、中禅寺秋彦の経営する古書店、京極堂を訪れたのは、五月二十八日の午後のことだった。

「上がるぞ、京極!」
 けたたましい声が響き、次いで店の戸が勢いよく開け放たれた。その向こうには、両手両足を大きく広げて立つ、美貌の男の姿がある。
 自称探偵、榎木津礼二郎である。
 背後からの麗らかな午後の日差しを浴びて、色素の薄い髪の輪郭が金色に輝いている。逆光で表情は全く見えない。

 店の主人、中禅寺秋彦は、例によって奥の座敷で座卓の上に本を広げていた。暗い眼をした、和装の男である。榎木津の姿を横目でちらと見て、また本に視線を落とす。

「榎さん、上がるのは構わないが、今千鶴子は出かけている。お茶は出せないぞ」
「なんだぁ、千鶴ちゃんはいないのか。うん、だがまあいい、仕方ない! 許そう!」
「さっき雪絵さんが来て連れて行ったんだ」
「雪ちゃんと一緒か、これはますます仕方ないな!!」
 お買い物か主婦は大変だなぁ、と云いながら、榎木津はどんどんと奥の座敷に入り、どかりと座った。
「その代わり、お前は此処にいロッ!」
「何だって?」

 中禅寺の横にごろりと寝転びながら、榎木津は下から見下すような半眼で、中禅寺を睨めあげる。

「何故なら、本来饗応すべき奥方が今日は此処にいないんだ! だったらお前が饗応するのが筋だ、この世の理だ!」
「どうせその体勢から見ると、榎さんは寝に来ただけじゃないのか」
「だからお前が此処にいれば良い! 此処にいて僕の睡眠を防衛するのが、お前の義務だ!」

 中禅寺は更に何か云うことを止めた。榎木津は既に寝息を立てている。この場にいる時の彼は、大抵こうして熟睡してしまうのだ。だが、他の来客に比べて格段に静かにしている分、中禅寺は咎める理由も無いので放って置く。そうすると、いつまでも寝ている。こうしたループを、榎木津はいたく気に入っているらしい。

 中禅寺は、わざと聞こえるようにため息をつくと、「骨休め」の札をかけに、榎木津を跨いで玄関へと向かった。
 玄関から戻ると、中禅寺は座卓の上に広げてあった読みかけの本を手に取り、榎木津の眠る座敷へと足を向けた。今日はこれ以上商売をする気は無いらしい。

 それから、どれほどの時間が過ぎたのか。榎木津は一度寝の体制に入ると、ちょっとやそっとでは目を覚まさないし、中禅寺は中禅寺で、読書に没頭している間は、時間の感覚を忘れている。二人に動きがあったのは、中禅寺がそれまで読んでいた本から、ふと顔を上げてからだった。
 中禅寺は軽い喉の渇きを覚え、茶でも入れようと立ち上がった。その時も尚、それまで読んでいた本を手に取り、ぱらぱらと頁を捲りつつ、足を踏み出す。途端に、派手に転んだ。爪先を榎木津の脇腹に引っ掛けてしまったのだ。

「う…しまった」

 そう云いながら起き上がろうとすると、突然足首をぐっと掴まれた。中禅寺は振り向き、なんと弁解しようか、と少し眉を寄せた。

「榎さん、済まない…」

 だが、榎木津は中禅寺の弁解を聞く前に、甲高い声でまくし立てた。

「痛い、痛いじゃないか!これはすごく痛かったぞ!お前は一体何の恨みがあって僕の横腹に蹴りを入れるんだ、京極!」
「違う、榎さんがそんなところに寝ているのがそもそも」
「ええいうるさい、黙れ京極!僕がどこで寝ていようとお前に口出しされるいわれは無い!!」

 中禅寺は、一つ大きなため息をつき、横目で榎木津を睨んだ。本人は睨んだつもりは無いだろうが、その目で見られた人の大半は、「睨まれた」と形容する目つきである。

「本を読んでいて足元が見えなかったんだよ」
「なら本など読むな!」

 という理由で、榎木津は中禅寺から和綴じの本を取り上げた。

「あ、こら、なにをするんだ榎さん!」

 その暴挙にはさすがに、中禅寺は少し慌てた。だが、榎木津は手を伸ばす中禅寺に取らせまいと、本を高く掲げ、中禅寺の襟元を左手で抑えて突っぱねた。

「お前が僕に意見できると思うのか!僕は神だ、神の命令は絶対だ!」

 そう言い放つなり、後方遥か彼方に手にした本を放り投げた。中禅寺が何か云いかけるのを、榎木津は鳶色の瞳を半眼より更に細め、中禅寺を見据えて高らかに言い放った。

「お前は僕の安眠を防衛する義務がある!よってお前には本を読む権利はない!僕はお前が恐れ多くも神に危害を加えることが無いようにこうして善後策をとってやっているのだ!」

 中禅寺は榎木津の性質をよく理解している。此処まで言い出したら、もうこちらの言い分は何一つ聞こうとしないだろう。再び、大きなため息を付き、襟元を抑えている榎木津の手首を握り、やんわりと外した。

「わかったよ。それじゃあ榎さん、別に床を取るから、ここで寝るのをやめたら良い」
「僕は此処が良い!!」

 呆れてものも言えない、とはこのことである。そもそもの発端の原因は、多少ならずとも場所にある。中禅寺が本に熱中するあまり、傍に居た榎木津の存在を忘れ、うっかりその横腹に蹴躓いて転び、それに榎木津がやいのやいのと文句を言っているのである。
 要は、場所の問題なのである。
 榎木津が移動するか、中禅寺が移動するか。いずれにせよ、二人が最も適する距離をとればいいだけのこと。それを、この男は。

「榎さん、なんだって此処にこだわるんだ」
「僕がどこで寝ようと、そこが布団だろうといすの上だろうとお前の膝だろうと、お前に異を唱える権利は無い!」

 中禅寺の膝。そこだけが妙に鮮明に耳に響いた。俗に言う膝枕のことか。
 中禅寺は眩暈を覚え、軽く額を押さえた。

「三番目のはやめてくれ、榎さん」

 榎木津は、中禅寺のお株を奪う仏頂面をすると、背中でずりずりと畳の上を移動し、中禅寺の膝の上に、唐突に頭を落とした。

「うるさい!とにかく僕は寝る!寝るから邪魔をするなよ!」
「僕の膝の上で寝ないでくれ榎さん!」

 中禅寺の抗議に早々に耳を塞ぎ、榎木津は鳶色の瞳をしっかりと閉じ、寝の体制に入った。中禅寺は、本日何度目になるのか分からないため息をつき、座卓の上に新しい本を載せた。

「・・・まったく、強引な人だ」

 その呟きに返すように、榎木津は目を閉じたまま
「お前の膝は肉が無くて寝にくい!」
 と、不必要に大きな声で云った。中禅寺は、その声に対して全く冷静に、
「だったら止めればいい」
 と、諭すように云う。だが、榎木津は頑として動かない。あまつさえ、
「僕は此処が良いんだ!」
 と、最早意地とも取れる意思を高らかに宣言し、次の瞬間には寝息を立て始めた。

 中禅寺は完全に諦めた。いや、むしろ榎木津が静かになったことに、すっかり安心してしまった。

「やっと、静かに本が読めるな」

 うっかり心の中の呟きが、実際の呟きに漏れ出てしまうくらいに、中禅寺は安心して、そしてようやく、彼は本のページを捲ることができたのだった。

 また、どれほどの時が経ったのだろうか。中禅寺は一つ、小さなため息をつき、中禅寺は目の前の少し離れたところに積み上げている本の山に目をやる。しばらく顎を擦ってから、徐に立ち上がった。
 だが、その膝には榎木津の頭が乗っていたのである。支えが傾いた頭は、膝から急降下して畳にこめかみを嫌というほどぶつけた。鈍い音がした。
 中禅寺は、珍しく、本当に目に見えて、しまったという顔をした。出来る事なら、このまま榎木津が目覚めないことを祈ったが、畳に頭を叩きつけられるという事態を無視して、榎木津が黙って眠っているわけは無い。案の定、榎木津はむくりと起き上がり、鳶色の瞳を半眼にした。記憶を見るのではない。正真正銘睨んでいるのだ。

「京極!!お前は妖怪のことばかりに夢中で、神たる僕の身を預かっていることを忘れたな!」
「すまん、榎さん。すっかり忘れていた」

 両手を榎木津の前に出し、牽制の姿勢をとる。

「向こうの本が読みたかったんだ」
「なんて不敬者だ、信じられん!」
 全く信じられん、どういう神経をしているのだ馬鹿本屋、と榎木津は拳で畳を叩いた。

「僕がお前の膝を使ってやっている光栄をないがしろにするとは、一体どういう神経をしているんだ!?」
「僕は足が疲れるだけだからそんなに嬉しくないんだが」
「僕だってお前の膝は骨が当たって首筋が痛くなる!」
「じゃあやめてくれ」

 榎木津は、大仰にため息をつくと、正面から中禅寺を見据え、高らかに宣言した。

「僕は此処で寝たいんだ!!」

 対して、中禅寺は仏頂面に磨きをかけた強面でまたしてもため息をつく。

「まったく、なんだってそう強引なんだ」
「強引じゃない、真理だ!僕が此処で寝たいといって、そこにお前がいる場合、お前は素直に膝を差し出せば良いんだ、そして僕がそこで寝る!単純なことじゃないか!!」
「本を枕にしたらそれなりに榎さんにも常識というものが身につくような気がするんだが…まあ、求めるだけ無駄か」
「本は本だろう。枕にもならん」
「言うと思ったよ、じゃあ自分の腕でも枕にしたらいいじゃないか。とにかく僕は足が痛いから別のものを枕にしてくれ」

 そう云うと、中禅寺は立ち上がり、堆く積み上げた本の山の上から、目当ての本を一冊取り上げた。

「腕を枕にしたら腕がしびれる。僕は自分の睡眠をとるのに、なんだってそんな犠牲を自分に強いなくちゃならないんだ!犠牲を払うのは下僕の仕事だ!」

 戻ってきて、元の場所に腰をすえながら、榎木津を見ようともせずに、中禅寺は頁を捲る。

「僕の膝を枕にすることで首が痛くなるのはいいのか?」
「それはお前の膝が使い勝手が悪いのがいけないんだ」

 中禅寺は、榎木津に気づかれないように、そっと自分の腿を撫でた。確かに、肉付きは良くない。そもそも榎木津ほどの美男子なら、喜んで膝を提供しようとする、ふくよかな女子は世に何百と居るはずなのである。芥川龍之介が肺病によってやせ衰え、しかも怨念を背負って化けて出たとまで形容される中禅寺の膝を好んで使おうとする、その榎木津の非常識さ加減が、今回に限っては中禅寺にはさっぱり分からない。

「僕の膝は僕のためにあるのであって、榎さんのためのものではないんだが・・・」
「お前のものは僕のものだ!お前は神たる僕が望むものを差し出せば良い!それが下僕の義務だ、神の権利だ!!」

 押そうと引こうと、この自称神を名乗る自称探偵は諦めることをしないのだ。そんなにも僕の膝が善いなんて、分からないとぶつぶつ呟きながら、中禅寺は観念して目を半分閉じた。

「わかったわかった、そうまで言うなら提供しよう。でもね榎さん、僕がこんなことを許しているなんて、他で言わないでくれよ」
「言うもんか。他にお前の膝を使いたがるやつが出てくると、厄介だ」

 そう云うと、再び榎木津は中禅寺の膝の上に頭を置いた。一つ、息を吸い込んで目を閉じると、
「二度と落っことすなよ」
 と、念を押し、瞬く間に寝息を立て始めた。

 中禅寺は、肉の薄い太腿の上にずっしりと来る榎木津の頭の重量に、早くも痺れを覚えながら、
 ため息をついた。





 榎木津の来訪は、いつも唐突である。
 その日、中禅寺は店を閉め、縁側で石榴の蚤を取っていた。

「ようっ!! 京極!!」

 甲高い金切り声に顔を上げると、両手を大きく広げた榎木津がいつの間にか庭に立っていた。

「榎さん、何の用…」
「寝に来たっ! 膝を貸せ!!」

 中禅寺は、大仰に顔をしかめた。

「そういつもいつもあんたに貸す膝は無いよ、榎さん」
「僕は神だ!!」

 最早常套句ともなりつつある金切り声を上げると、榎木津は大またで縁側まで歩き、縁石に靴を脱ぎ散らかすと、縁側に上がった。

「借りるぞ、京極!!」

 そう云うと、無理やり中禅寺の膝の上に頭を乗せた。

「ちょ、ちょっと榎さん! 此処じゃ人目も…」
「それもそうか」

 素直に目を開けると、榎木津はむんずと中禅寺の腕を掴んだ。

「じゃあ奥へ行こう!」
「あんたにはそこの座布団を枕にするという頭は無いのか、榎さん!!」

 珍しく声を荒らげて中禅寺が反論すると、榎木津は見えているのかいないのかわからないような視線で、くるりと中禅寺を振り向いた。

「僕はお前の膝で寝たくって此処まできたんだ。それなのに座布団なんか使っては、何のために此処に来たのか分からない!! 本末転倒だッ!!」

 そうして座敷の奥へ引っ張られながら、結局この探偵の枕を提供することになりそうな古本屋は、少しだけため息をついた。

枕返しの代償・了

















 枕返し

 寝ている間に枕をひっくり返したり引っこ抜いたりすると言われている妖怪。
 河童、狐狸の類、座敷童とも言われている。
 昔、旅館の主人が泊まっていた盲人を殺し、その盲人の霊が泊まっていた部屋に住みつき、枕返しになったという話がある。
 効能は寝相が良くなるとか(笑)

 参照:水木しげるロードの紹介



最近中原さんに京極堂シリーズを貸したのは私です(笑)
メッセで話をしていたら、なぜか京極堂シリーズでのなりチャ状態に…
いつの間にか話が出来てましたね!(笑)
京極堂→私、榎木津→中原さんです。

なんていうか…
可愛いね!!!(笑)
なんかもう何でもいいよ!両方受けでも良くない!?(待て)
すっげー萌えた!久々に大ヒット!!

集中講義の間中ずっとこの話題で萌えてましたね、講義そっちのけで。

中原さんどうもありがとう!!次回作期待してる!!(ええ)



2005.12.29


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